杉田玄白は何をした人?解体新書を出版した江戸時代の医師の挑戦

身近な疑問

ワンダー 1

公開日2026.02.02

杉田玄白(すぎた げんぱく)という名前を聞いたことがありますか。彼は江戸時代に活躍した医師で、日本の医学を大きく進歩させた人物です。 この記事では、杉田玄白の功績と、彼が挑んだ困難についてわかりやすく解説します。

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杉田玄白は何をした人?

杉田玄白は、日本初の西洋解剖学書「解体新書」を翻訳・出版した江戸時代の医師です。漢方医の家に生まれましたが西洋医学に関心を持ち、実際の解剖(腑分け)でオランダの医学書の正確さに衝撃を受けました。辞書もない困難な状況下で翻訳をやり遂げ、日本の近代医学の発展に大きく貢献しました。

杉田玄白の生い立ちと少年期

杉田玄白は、1733 年(享保18年)に江戸で生まれました。家は代々続く医師の家系で、父親は若狭国(わかさのくに:現在の福井県の一部)の小浜藩(おばまはん)に仕える藩医(はんい)でした。玄白も後に父親の跡を継いで小浜藩の医師となります。

少年時代の玄白は、当時の日本で主流だった「漢方医学(かんぽういがく)」を学びました。これは中国から伝わった考え方にもとづき、薬草(漢方薬)を用いて体全体のバランスを整える治療法です。当時の日本の医学では、実際に人体内部の構造を見て治療するという考え方はほとんどありませんでした。

しかし、玄白は若い頃から江戸に入ってくる西洋の知識、特にオランダ語を通じて伝わる医学「蘭学(らんがく)」に強い関心を持つようになります。

「ターヘル・アナトミア」との出会い

玄白が38歳になった1771 年、彼の運命を変える出来事が起こります。オランダ語で書かれた西洋の医学書「ターヘル・アナトミア」を手に入れたのです。

この本には、それまでの日本の書物には見られなかった精密な人体の「解剖図」が多数掲載されていました。玄白が「この図は本当に正確なのだろうか?」と思っていた矢先、江戸の小塚原刑場で、罪人の「腑分け(ふわけ)」(今でいう「解剖」)が行われることになりました。

玄白は、仲間の前野良沢(まえの りょうたく)や中川淳庵(なかがわ じゅんあん)たちと共に、この「腑分け」を観察しに行きます。そして、持参した「ターヘル・アナトミア」の解剖図と、実際の人間の体の内部とを見比べました。その結果、本の図と実際の臓器の位置や形が、驚くほど正確に一致していたのです。

玄白たちは、西洋医学の正確さに大きな衝撃を受けると同時に「この優れた医学書を日本語に翻訳し、日本の医師たちに広めなければならない」と固く決意しました。

「解体新書」を出版

「ターヘル・アナトミア」の翻訳を決意した玄白たちは、すぐに行動に移します。しかし、作業は困難を極めました。

仲間の前野良沢はオランダ語の知識がありましたが、玄白や中川淳庵はアルファベットがわかる程度からのスタートでした。当時は、医学の専門用語を訳せるような辞書もありません。彼らは集まり、図とオランダ語の文章を一つ一つ照らし合わせながら、手探りで翻訳作業を進めました。

約3年半の時間をかけ、1774年 (安永3年)、ついに日本初の本格的な西洋解剖学の翻訳書「解体新書」が出版されたのです。

杉田玄白の挑戦と苦労とは?

「解体新書」完成までの道は険しく、杉田玄白は多くの苦労を経験しました。オランダ語の辞書がなく手探りで翻訳を進めていきました。また、当時の主流だった漢方医からの強い反発もありましたが、杉田玄白は仲間たちと協力し、強い信念でこの大事業を成し遂げたのです。

翻訳における苦労

玄白たちが翻訳を始めた当時、医学書に対応できるオランダ語の辞書は存在しませんでした。たとえば、「鼻(はな)」という言葉一つを理解するにも、「これは解剖図の顔の中心にある、高い部分のことだ」というように、図と文章を見比べながら、まるで暗号を解くように意味を推測(すいそく)していたそうです。

そのため、わからない言葉ばかりで、たった一行を訳すのに丸一日かかることもあったといいます。しかし、彼らはあきらめずに地道な作業を続け、少しずつ日本語に訳していきました。

周囲からの反発

当時、日本のほとんどの医師は、漢方医学を絶対的なものと考えていました。人体を切り開いて中を調べる「解剖」という考え方自体が、なかなか受け入れられない時代だったのです。

そのため、玄白たちが進める西洋医学(蘭学)の翻訳は、「怪しいことをしている」「伝統的な医学を乱すものだ」と、周囲の医師たちから多くの批判を受けました。

しかし、玄白には「自分の目で見て正しいと確認できた知識を広めなければならない」という強い信念がありました。周囲から何を言われても、彼らは日本の医学の未来を信じて、翻訳作業をやめませんでした。

仲間との協力

この困難な作業を成し遂げられたのは、仲間の力があったからです。中心となったのは、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵たちでした。

特に、オランダ語の能力が高かった前野良沢は慎重な性格で、完璧な翻訳を目指していました。一方、杉田玄白は「不完全でも、少しでも早くこの新しい知識を世に広めるべきだ」と考える、行動力のあるリーダータイプでした。

二人は意見が衝突(しょうとつ)することもありましたが、互いの能力を認め合い、協力しました。玄白が全体をまとめ、良沢が翻訳の中心を担うという役割分担によって、この大きな仕事をやり遂げることができたのです。

杉田玄白のその後と日本医学への影響

「解体新書」の出版後も、杉田玄白の功績は続きます。この本は日本の医学界に蘭学を広める大きなきっかけとなりました。杉田玄白は私塾「天真楼」で多くの弟子を育て、教育者としても貢献しました。晩年には翻訳の苦労などを「蘭学事始」にまとめ、その挑戦の様子を後世に伝えました。

「解体新書」がもたらした変化

「解体新書」の出版は、日本の医学界に大きな影響を与えました。それまで漢方医学が主流だった日本で、「実際に人体を見て、構造を理解した上で治療する」という西洋医学の考え方、すなわち蘭学が広まるきっかけとなったのです。

「解体新書」に触発(しょくはつ)され、多くの医師や若者たちがオランダ語や西洋医学を学び始めました。これにより、日本の医学研究は大きく進歩していきます。杉田玄白たちの挑戦がなければ、日本の近代医学の発展はもっと遅れていたかもしれません。

大勢の弟子を育てた「天真楼」

杉田玄白の功績は、「解体新書」の出版だけにとどまりません。彼は「天真楼(てんしんろう)」という私塾を開き、多くの弟子を育てました。

医師として多くの患者を治療し続けると同時に教育者として、自らが切り開いた西洋医学の知識を惜しみなく次の世代に伝えたのです。彼の影響を受けた弟子や学者たちが、その後の日本の近代医学の基礎を築いていきました。

晩年にまとめた「蘭学事始」

杉田玄白は、晩年に「蘭学事始(らんがくことはじめ)」という回想録(かいそうろく)を書き残しました。これは、玄白自身が「解体新書」の翻訳に取り組んだときの体験や、仲間たちとの苦労を記録したものです。

これは当時の蘭学の歴史を知る上で重要な資料であり、「蘭学事始」によって玄白たちの努力の様子が後世に詳しく伝わることになりました。

杉田玄白に関する豆知識

杉田玄白には、その功績以外にも興味深い豆知識があります。当時としては長寿で、独自の健康法も実践していました。また、「神経」や「軟骨」といった私たちが今も使う医学用語は、彼らが翻訳の際に生み出したものです。その功績は、福沢諭吉によって「蘭学事始」が広められたことで、後世にも大きな影響を与えました。

杉田玄白の長生きの秘けつ

杉田玄白は、85歳 まで生きたといわれており、これは当時としては非常に長寿でした。

玄白は医師として、人の体や健康について深く考えていました。「養生七不可(ようじょうしちふか)」という健康法を記しており、そこでは「過去を悔やまない」「心配しすぎない」「食べすぎない」といった、現代にも通じる生活習慣をすすめています。

玄白は質素な食事を心がけていたとも伝えられており、医師としてだけでなく、自身でも健康的な生き方を実践していました。

杉田玄白たちが生み出した医学用語とは?

「解体新書」を翻訳する際、玄白たちはオランダ語の専門用語を日本語に置き換える作業にも取り組みました。当時の日本語にはない概念(がいねん)を表すため、新しい言葉を作る必要があったのです。

その結果、生まれた言葉の中には、今でも私たちが使っている医学用語が数多くあります。たとえば、「神経(しんけい)」「軟骨(なんこつ)」「盲腸(もうちょう)」 といった言葉は、この時に玄白たちが考えたものです。

杉田玄白は福沢諭吉にも影響を与えた?

明治時代に「学問のすゝめ」を書いた福沢諭吉(ふくざわゆきち)も、杉田玄白から影響を受けた一人です。諭吉も若い頃は蘭学を学んでおり、西洋の進んだ知識を日本に広めようとしました。

玄白が晩年に書き残した「蘭学事始」は、明治時代に入ってから、福沢諭吉らの尽力によって一般向けに刊行されました。それによって、玄白たちの功績が広く知られるようになったのです。

杉田玄白の挑戦が日本の医学を変えた

この記事では、杉田玄白が何をした人なのか、その功績について紹介しました。

玄白は、江戸時代の医師であり、前野良沢や中川淳庵といった仲間たちと協力して、オランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」として出版しました。

十分な辞書もなく、周囲からの反発を受けながらも、自らが正しいと信じる医学を広めようとした玄白の強い意志と行動力が、日本の医学の歴史を大きく動かしました。

彼の「事実を自分の目で確かめる」という科学的な姿勢は、現代を生きる私たちにとっても大切なことを教えてくれます。皆さんも、何か疑問に思ったことをあきらめずに調べ、新しい知識を学ぶ姿勢を大切にしてください。

杉田玄白についてのQ&A

Q.杉田玄白って、結局何をした人なの?

A.杉田玄白は、江戸時代に日本で初めて西洋の解剖学書を翻訳し、「解体新書」という本を出版した医師です。当時の日本は漢方医学が主流でしたが、玄白は仲間と協力し、オランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳しました。これにより、人体を実際に見て治療するという近代医学の考え方が日本に広まるきっかけを作りました。

Q.「解体新書」を作るのは、何がそんなに大変だったの?

A.「解体新書」の翻訳は非常に困難でした。なぜなら、杉田玄白たちの時代にはオランダ語の辞書がほとんどなく、アルファベットから学ぶような状態だったからです。図と文章を見比べ、まるで暗号を解くように手探りで翻訳を進めました。また、「人体を解剖する」という考え方自体が受け入れられず、周囲の医師から多くの批判や反発を受けながらの作業でした。

Q.杉田玄白が作った言葉って、今も使われているの?

A.はい。杉田玄白たちが「解体新書」を翻訳する際に作った言葉は、現代の日本でも数多く使われています。当時の日本語にはない西洋医学の専門用語を、彼らが苦心して日本語に訳しました。たとえば、「神経(しんけい)」「軟骨(なんこつ)」「盲腸(もうちょう)」といった言葉は、杉田玄白たちの努力によって生み出されたものです。

Q. どうしてオランダの本を翻訳しようと思ったの?

A. 罪人の解剖(腑分け)を見学したことがきっかけでした。玄白が持っていたオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」の図と、実際の人体の内部を見比べたところ、驚くほど正確に一致していたのです。これに衝撃を受け、「この正確な西洋医学を日本の医師たちにも広めなければならない」と強く決意したためです。

Q. 翻訳は一人でやったの?

A. 翻訳は仲間たちと協力して行いました。主なメンバーは、玄白のほかに前野良沢(まえのりょうたく)や中川淳庵(なかがわじゅんあん)などがいました。特に前野良沢はオランダ語の知識があり翻訳の中心となりましたが、慎重派でした。一方、玄白はリーダーとして翻訳を推し進め、チームワークで困難な作業を乗り越えました。

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