菅原道真は何をした人?学問の神様と呼ばれる理由や梅の花との関係

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公開日2026.02.09

受験の時期になると、多くの人が合格祈願に「天満宮(てんまんぐう)」を訪れます。そこにまつられているのが、菅原道真(すがわらのみちざね)です。 「学問の神様」や「天神(てんじん)さま」として知られる菅原道真は、何をした人だったのでしょうか。この記事では、菅原道真の生涯や功績、信仰が広がった理由を解説します。

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菅原道真ってどんな人?

菅原道真は、平安時代中期に生きた学者であり政治家です。学問の家に生まれ、幼い頃から詩や文章に優れ、やがて朝廷で才能を発揮しました。また、豊かな教養と誠実な人柄で信頼を集め、宮廷文化の中心でも活やくしました。

菅原道真の生い立ち

菅原道真は、平安時代前期の845 年(承和12年)に京都で生まれました。彼が生きた時代は、貴族(きぞく)たちが政治の中心となり、日本の文化が大きく発展していった時期です。

菅原家(すがわらけ)は、道真の曽祖父や祖父、そして父の菅原是善(すがわらのこれよし)も学者として朝廷(ちょうてい:天皇が政治を行う場所)に仕えた名家でした。

道真は幼い頃から学問の才能を発揮し、5歳で和歌(わか)を詠み、11 歳で漢詩(かんし:中国の形式の詩)を作ったと伝えられるほど優秀でした。

学者から政治家への道

道真は、その才能を活かして朝廷に仕え、学者としての高い地位である「文章博士(もんじょうはかせ)」に若くして就任します。

彼は優れた知識と誠実な人柄が当時の天皇だった宇多天皇(うだてんのう)に認められ、学者出身としてはめずらしく、政治の世界でも出世していきました。そして最終的には、政治の中心メンバーである「右大臣(うだいじん)」にまで任命されたのです。

菅原道真は何をした人?

菅原道真は、学問と政治の両面で大きな足跡を残した人物です。詩文集「菅家文草(かんけぶんそう)」をまとめ、歴史書「類聚国史(るいじゅうこくし)」の編さんに関わるなど、優れた学者として知られました。また、私塾で人材を育て、遣唐使の廃止を進言するなど、日本の文化が独自に発展する流れを生み出しました。

学者としての功績

道真は、まず学者として素晴らしい功績を残しています。彼は優れた漢詩や文章を数多く残し、それらをまとめた詩文集「菅家文草(かんけぶんそう)」を作りました。

また、日本の歴史をまとめた公式な記録(「六国史(りっこくし)」と呼ばれます)を出来事の種類ごとにわかりやすく分類・整理してまとめた「類聚国史(るいじゅうこくし)」という歴史書の編集にも参加しました。

また、祖父や父の代から続く自宅の私塾(後に「菅家廊下(かんけろうか)」と呼ばれる)を受け継ぎ、そこで多くの若い学者や役人を育てました。道真は、優れた教師としても尊敬されていたのです。

政治家としての功績

道真の政治家としての大きな功績の一つに、894 年に行った「遣唐使(けんとうし)の廃止」の提案があります。

遣唐使とは、当時の進んだ国であった中国(唐)に留学生を送る国家的なプロジェクトです。しかし、当時の唐は国内が乱れて衰退(すいたい)していました。また、日本から唐への船旅は命がけの危険なものでした。

道真は「危険をおかしてまで学ぶことは少なくなった。これからは唐の真似ではなく、日本独自の文化を育てる時代だ」と考え、宇多天皇に廃止を提案しました。この決断が、その後の日本独自の文化が花開く大きなきっかけとなったのです。

また、右大臣になる前には「讃岐守(さぬきのかみ)」(現在の香川県のトップ)として京都から離れた場所で働いていた時期があり、そこでも人々の暮らしを良くするために力を尽くしたと伝えられています。

藤原道真の豆知識

左遷や怨霊伝説、天神信仰、そして梅の物語など、菅原道真には多くの伝説が残されています。死後、名誉が回復されるとともに学問の神様として信仰され、全国に天満宮が建てられました。梅の花との深い結びつきも、道真の詩心を伝える象徴となっています。

菅原道真はなぜ左遷されたの?

宇多天皇の次の醍醐天皇(だいごてんのう)の時代にも、道真は右大臣として重要な役目を任されていました。しかし、これを快く思わないライバルが現れます。それが、有力な貴族であった藤原時平(ふじわらのときひら)です。

時平は、「道真が、別の皇子を天皇にしようとたくらんでいる」という、うわさを醍醐天皇に告げました。これを信じてしまった天皇は901 年、道真から全ての役職を取り上げ、九州の大宰府(だざいふ:現在の福岡県太宰府市)へ追いやる命令を出します。これを「左遷(させん)」といいます。

道真は家族と引き離され、都へ戻ることも許されないまま、その2年後に59歳 で亡くなりました。

菅原道真はなぜ怨霊と呼ばれたの?

道真の死後、京都では不思議なことや恐ろしいことが次々と起こりました。

まず、道真を左遷に追いやった藤原時平が若くして亡くなります。さらに、都で伝染病が流行したり、日照りが続いたりしました。

人々の恐怖を決定づけたのは、天皇が住む御殿の清涼殿(せいりょうでん)に雷が落ち、多くの役人が死傷した事件です。

人々は「これは無実の罪で亡くなった道真公の怒り、怨霊(おんりょう)のしわざだ」と恐れました。朝廷もこの事態を恐れ、道真の罪を取り消し、失った地位を元に戻しました。

菅原道真が学問の神様と呼ばれる理由

道真の怨霊を鎮(しず)めるため、朝廷は道真を「神」としてまつることにしました。雷を落としたことから、道真はもともといた雷の神(天神)と結びつけられ「天神さま」と呼ばれるようになったのです。これが「天神信仰」の始まりです。

最初は「恐ろしい雷の神様」でしたが、時代が経つにつれて、道真が生きていた頃の功績が再び注目されます。

「道真公は、優れた学者だった」「あんなにすごい学者だったのだから、学問のことをお願いすればきっと力を貸してくれるはずだ」
このように信仰の形が変化し、いつしか「学問の神様」として、人々から広く尊敬を集めるようになりました。

菅原道真公をまつる神社は「天満宮(てんまんぐう)」と呼ばれ、道真が亡くなった場所である太宰府天満宮(福岡県)や、北野天満宮(京都府)などが特に有名です。

菅原道真と梅の木との深い関係

道真がこよなく愛した花が「梅」でした。大宰府へ左遷されるとき、京都の屋敷の梅の木に向かって詠んだとされる有名な和歌があります。

東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

(現代語訳:春風が吹いたら、その香りを遠くまで届けておくれ。主人の私がいなくても、春を忘れないでおくれ。)

この歌には「京都の梅が道真を慕って、一夜で大宰府まで飛んでいった」という「飛梅伝説(とびうめでんせつ)」が生まれました。そのため、今でも全国の天満宮の境内には梅の木がたくさん植えられ、梅は道真の象徴となっています。

菅原道真は「誠実さ」で学問の神様になった

この記事では、菅原道真が何をした人なのか、その功績から悲劇的な最期、そして神様としてまつられるようになった理由を解説しました。

道真は、優れた才能で学問と教育に力を尽し、政治家としては遣唐使の停止を提案するなど、国の未来を考えた決断をしました。

政敵との争いに敗れて遠い地で亡くなり、死後は怨霊として恐れられましたが、やがてその誠実な生き方と学問への情熱が再び評価され、「学問の神様」として広く信仰されるようになったのです。

もしも、勉強や試験などで壁にぶつかったときは、苦しい状況の中でも学び続けた道真公の姿を思い出し、天満宮を訪ねてみてはいかがでしょうか。きっと、前へ進む勇気をもらえるはずです。

菅原道真についてのQ&A

Q.菅原道真って、何をした人?

A. 菅原道真は、学者であり政治家として活やくした人物です。詩や文章に優れ、人材の育成にも力を注ぎました。894年には遣唐使の廃止を提案し、日本の独自文化を育てるきっかけをつくりました。現在は学問の神様として親しまれています。

Q.どうして学問の神様って呼ばれるの?

A.菅原道真は学問に優れ、教育にも熱心でした。左遷後に起きた災いのせいで怨霊と恐れられましたが、名誉が回復した後はその学識と人柄が高く評価されます。こうして、受験や勉強の成功を願う信仰が広がり、全国の天満宮で「天神さま」としてまつられるようになりました。

Q.菅原道真の幼少期のエピソードは?

A. 学問の名家に生まれた道真は、幼い頃から天才ぶりを発揮しました。わずか5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を作ったといわれています。父や祖父と同じく学者としての道を歩み、若くして文章博士になるなど、その才能は早くから開花していました。

Q.藤原道真は、なぜ大宰府へ左遷されたのですか?

A. ライバルであった藤原時平の策略によるものです。時平は「道真が皇位継承を企てている」という嘘のうわさを醍醐天皇に告げ口しました。これを信じた天皇により、道真は無実の罪を着せられ、役職を解かれて九州の大宰府へ追放されてしまいました。

Q.どこへ行けば道真ゆかりの場所を見られる?

A. 菅原道真をまつる神社としては、福岡の太宰府天満宮や京都の北野天満宮が有名です。どちらも合格祈願の神社として人気があり、梅の名所としても知られています。実際に訪れて歴史や伝説にふれると、道真の生き方や信仰がより身近に感じられるでしょう。

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