伊達政宗(だて まさむね)の名前を聞くと、「独眼竜(どくがんりゅう)」の呼び名や、大きな三日月の飾りがついた兜(かぶと)を思い浮かべる人が多いかもしれません。
政宗は、戦国時代(せんごくじだい)から江戸時代にかけて活躍し、今の仙台市につながるまちづくりを進めた武将です。海外との交流にも目を向け、新しいことに挑戦した人物として知られています。
この記事では、伊達政宗が何をした人なのか、生い立ちや有名な戦い、仙台藩(せんだいはん)づくりの工夫をわかりやすく紹介します。
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このトピックスのもくじ
伊達政宗は何をした人?
伊達政宗は、戦国時代から江戸時代のはじめにかけて、東北地方を中心に活躍した武将です。幼いころの病気で右目の視力を失ったことから、のちに「独眼竜(どくがんりゅう)」と呼ばれるようになりました。仙台では今も「政宗公(まさむねこう)」として親しまれています。
政宗は18歳で伊達家の当主になり、東北地方で勢力を広げました。その後、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)や徳川家康(とくがわ いえやす)といった、強い力を持つ人物が治める時代を生き抜きます。
政宗の功績(こうせき)は、戦いの強さだけではありません。自然の地形をいかした仙台城(せんだいじょう)と城下町(じょうかまち)をつくり、今の仙台市の土台を築きました。
また、家臣をヨーロッパへ送るなど、海外との交流にも関心を持っていました。まずは、政宗がどのような子ども時代を過ごしたのか見ていきましょう。
伊達政宗の生い立ちと「独眼竜」と呼ばれた理由
伊達政宗は、子どものころから伊達家の次のリーダーとして育てられました。病気で右目の視力を失いましたが、学問や武芸を身につけ、若くして家をまとめる立場になります。
米沢での誕生と子ども時代
伊達政宗は1567年、米沢城(よねざわじょう:現在の山形県米沢市)で生まれました。父は伊達輝宗(だて てるむね)、母は義姫(よしひめ)です。子どものころの名前は「梵天丸(ぼんてんまる)」といいました。
彼は、伊達家の次のリーダーとして大切に育てられました。父の輝宗は教育に力を入れ、虎哉宗乙(こさい そういつ)というお坊さんを先生として招きます。政宗は、武力だけでなく、物事の考え方や礼儀といった教養(きょうよう)も学んで成長しました。
病気による失明と「独眼竜」の由来
政宗は幼いころ、疱瘡(ほうそう:天然痘という伝染病)にかかり、右目の視力を失いました。右目が見えなくなったことは、政宗の人生に大きな影響を与えます。
後世に政宗を表す言葉として広まった「独眼竜(どくがんりゅう)」は、「片目の竜」という意味です。竜は、強さや勢いを感じさせる想像上の生き物です。右目が不自由でありながら東北で勢力を広げた政宗の姿と重なり、この呼び名が有名になりました。
若くして伊達家の当主に
政宗は当時の数え方で11歳のときに元服(げんぷく:大人の仲間入りをする儀式)し、祖先の名にちなんで「政宗」と名乗るようになります。
1584年、政宗は18歳の若さで伊達家の当主になりました。まだ若い政宗でしたが、家臣たちをまとめ、まわりの大名たちと向き合うリーダーになったのです。
戦国大名として東北から全国へ名前を広げた活躍
政宗が生きた時代は、戦国大名どうしが領地(りょうち)をめぐって争う時代でした。政宗は東北で勢力を広げながら、やがて豊臣秀吉や徳川家康とも関わることになります。
東北をまとめるための激しい戦い
当主になった政宗のまわりには、多くの大名がいました。国を守るためには、味方とは同盟(どうめい)を結び、敵対する相手とは戦う必要がありました。
1585年には、父の輝宗が敵に連れ去られて命を落とす事件が起こります。政宗はその後、父のかたきを討つための戦いに向かいました。
1589年、政宗は「摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)」で蘆名(あしな)氏を破ります。この勝利で伊達家の領地は大きく広がりました。数え年23歳の政宗は、東北地方で名前を知られる有力な大名になったのです。
天下人・豊臣秀吉との出会いと大きな転機
全国では、豊臣秀吉が日本を一つにまとめる「天下統一」を進めていました。秀吉は大名どうしが勝手に戦うことをおさえ、政宗にも自分に従うよう求めました。
1590年、秀吉は関東の北条氏(ほうじょうし)を攻めるため、政宗にも小田原(おだわら)へ来るよう命令します。政宗は小田原へ向かいましたが、到着が遅れたため、秀吉にきびしく罰せられる危険がありました。
このとき政宗が、死を覚悟した人が着る白い服「死装束(しにしょうぞく)」を着て秀吉に会いに行き、ピンチを切り抜けたという話が伝えられています。
秀吉に従ったことで伊達家は残りましたが、苦労して手に入れた領地の一部は取り上げられてしまいました。政宗は、自分の家を守るために、時代の流れに合わせて生きる道を選んだのです。
徳川家康の側について家を守った知恵
豊臣秀吉が亡くなると、次に力を強めたのが徳川家康でした。1600年の「関ヶ原の戦い」が起きると、政宗は家康の側につくことを決めます。
東北地方では、家康と敵対する上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の動きをおさえるため、上杉方の白石城(しろいしじょう)を攻め取るなど、家康の味方として行動しました。
政宗は、強い相手とむやみに戦うのではなく、だれと協力すれば伊達家を長く残せるかを見極めました。その後、政宗はのちに仙台藩と呼ばれる領地を治める初代藩主(はんしゅ)となり、江戸時代を生き抜く土台をつくりました。
仙台藩の初代藩主としての新しいまちづくり
伊達政宗の大きな功績は、戦いだけではありません。仙台城を築き、城下町を整え、川や港の整備にも力を入れて、豊かな仙台藩の土台をつくりました。
新しいシンボル「仙台城(青葉城)」の建設
政宗は、関ヶ原の戦いのあと、新しい城づくりを始めました。1600年に城の場所や形を決める「縄張り(なわばり)」を行い、1601年から本格的な工事に取りかかります。仙台城は1602年ごろに一応の完成をみたとされています。
仙台城は、青葉山(あおばやま)に築かれた山城です。東側には広瀬川(ひろせがわ)を見下ろす崖(がけ)があり、南側には深い谷があるなど、敵が攻めにくい自然の地形をうまく使っていました。そのため「青葉城」とも呼ばれます。
現在、当時の建物は残っていませんが、立派な石垣(いしがき)や城跡(しろあと)から当時のようすを知ることができます。
お店や家をきれいに並べた「城下町」づくり
政宗は、城だけでなく、そのまわりに人が住んで商売をする「城下町」も計画的に整えました。武士の家、商人や職人の町、お寺や神社などを、役割に合わせて配置したのです。
「仙台」という名前をつけたのも政宗です。それまで「千代」と書いて「せんだい」と読んでいた地名を、「仙台」という文字に変えました。今の仙台市の中心部にも、政宗の時代から続く町の名前が残っています。
また、米などを船で運びやすくするために、北上川(きたかみがわ)の改修や石巻(いしのまき)の港の整備も進めました。これらは、仙台藩を豊かにするための大切な工夫でした。
ヨーロッパへ部下を送った「慶長遣欧使節」
政宗は、日本国内だけでなく、海を越えた海外にも目を向けました。1613年、家臣の支倉常長(はせくら つねなが)たちを、スペインやローマへ送り出します。これを「慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)」といいます。
使節団は太平洋と大西洋を渡り、メキシコやスペインを通ってローマまで向かいました。当時の日本からヨーロッパへ行くのは、命がけの大きな挑戦でした。
政宗は、スペインとの貿易や海外との交流を考えていたとされています。戦国武将でありながら広い世界に関心を持ち、新しいものを取り入れようとしたところも、政宗が人気を集める理由のひとつです。
伊達政宗についてのQ&A
Q. 伊達政宗の兜(かぶと)には、なぜ大きな三日月がついているのですか?
A. 三日月を選んだ本当の理由は、はっきりとはわかっていません。細い月が少しずつ満ちていくように、伊達家が大きく発展してほしいという願いをこめたという説があります。大きな三日月は、今も伊達政宗を表す有名な目印です。
Q. 伊達政宗は本当に眼帯をしていたのですか?
A. 政宗が眼帯をしていたという確かな記録はありません。肖像画(しょうぞうが)にも眼帯姿は描かれていませんが、幼いころの病気で右目の視力を失ったことは知られています。眼帯姿は、後の物語や映像作品によって広まったイメージだと考えられます。
Q. 伊達政宗にゆかりのある、今でも有名な食べ物はありますか?
A.仙台名物の「ずんだ餅(もち)」には、政宗が陣太刀(じんだち:戦いのときの刀)で枝豆をつぶしたことが名前の由来だという説があります。政宗が本当に考えた食べ物かはわかっていませんが、宮城県の大切な郷土料理として今も受け継がれています。
伊達政宗は仙台の土台をつくった武将
伊達政宗は、右目の視力を失いながらも若くしてリーダーとなり、東北地方で勢力を広げた戦国大名(せんごくだいみょう)です。豊臣秀吉や徳川家康の時代を生き抜き、仙台城と城下町をつくりました。
政宗の魅力は、戦いの強さだけではありません。まちづくりや海外との交流など、未来を見すえて新しいことに挑戦したところにもあります。
今の仙台につながる歴史を知ると、伊達政宗が何をした人なのか、より身近に感じられるはずです。








































