ガンジーは、インドの独立を語るうえで欠かせない人物です。暴力(ぼうりょく)を使わずに人々をまとめ、イギリスの支配からインドを自由にするために力を尽くしました。
この記事では、ガンジーが何をした人なのか、「非暴力(ひぼうりょく)」の考え方や、世界中から注目された「塩の行進」についてわかりやすく紹介します。
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このトピックスのもくじ
ガンジーは何をした人?
ガンジーは、インドをイギリスの支配から独立させるために活動した指導者(しどうしゃ)です。「ガンディー」と書かれることもあり、本名はモーハンダース・カラムチャンド・ガンディーといいます。
ガンジーの大きな特徴は、「非暴力(ひぼうりょく)・不服従(ふふくじゅう)」という方法で戦ったことです。これは、暴力をふるわず、不公平な命令には従わないことで、自分たちの考えを示す運動です。
ガンジーは、インド人が自分たちの力で生きることや、宗教や身分の違いをこえて人々が平和に暮らすことをめざしました。こうした考え方は、インドだけでなく世界の多くの人に影響を与えており、のちにアメリカで黒人差別と戦ったキング牧師や、南アフリカのネルソン・マンデラなど、世界のリーダーたちにも大きな影響を与えました。
ガンジーの生い立ちと若いころの経験
ガンジーは、はじめから大きな運動をひきいる有名人だったわけではありません。子どものころの家庭環境や、海外で受けた差別の経験が、のちの活動につながっていきました。
インドでの誕生と弁護士への道
ガンジーは1869年、インド西部のポールバンダルで生まれました。父は地域の政治に関わる役人でした。ガンジーは子どものころにカストゥルバという女性と結婚します。これは当時のインドにあった習慣のひとつでした。
若いころのガンジーは、イギリスのロンドンへ留学し、法律を学びました。その後、弁護士(べんごし)の資格を取り、人々の権利を守る仕事へ進んでいきます。
南アフリカでの差別との出会い
ガンジーは仕事のため、南アフリカへ渡りました。そこで、インド人が列車や町の中でひどい差別を受けている現実を知ります。ガンジー自身も、列車の一等車から追い出されるなど、差別を受けました。
この経験から、ガンジーはインド人への差別や不公平な扱いを、そのままにしてはいけないと考えるようになります。南アフリカでインド人の権利を守る運動を始め、のちに「サティヤーグラハ」と呼ばれる考え方を深めていきました。サティヤーグラハとは、真理(しんり)を大切にし、正しいことをねばり強く求めるという意味で使われた言葉です。
インドへの帰国と独立運動への参加
1915年、ガンジーはインドへ帰国しました。当時のインドはイギリスに支配され、インド人は政治や経済の面で自由に決められないことが多くありました。
ガンジーは、インドの独立や政治への参加を求めた団体であるインド国民会議と関わりながら、農民や労働者、町で暮らす人々の声に耳を傾けました。そして、インド人が自分たちの国を自分たちで動かす自治(じち)と独立をめざして、本格的に活動していきます。
「非暴力、不服従」で戦った独立運動
ガンジーの運動は、武器を持って相手を倒す戦いではありませんでした。人々が協力し、毎日の行動を変えることで、イギリスの支配に抵抗(ていこう)していったのです。
暴力を使わない抗議
「非暴力(ひぼうりょく)」とは、相手からひどいことをされても、暴力で返さない考え方です。ガンジーは、暴力で相手を傷つけると、さらに争いが広がってしまうと考えました。
そのかわりに、人々が集まって歩く、声を上げる、断食(だんじき)をするなどの方法で、自分たちの考えを示しました。断食とは、食事を取らずに強い決意を表す行動です。ガンジーは、平和を守るためや、人々に争いをやめてもらうために断食を行うことがありました。
イギリスの命令に従わない抵抗
「不服従(ふふくじゅう)」とは、不公平な命令や法律に対して、ただ従うのをやめることです。ガンジーは、イギリスの支配そのものに反対しながらも、人を傷つけない方法を選びました。
例えば、不公平な法律に従わない、税金に反対する、抗議の集会や行進に参加するなどの方法で、多くのインド人が「このまま従うことはできない」という考えを示しました。このような非暴力不服従の運動は、警察に逮捕(たいほ)される危険もありました。それでも、人々は自分たちの自由と平等を求めて行動しました。
イギリス製品を買わないボイコット
ガンジーは、イギリス製品を買わないボイコットも呼びかけました。ボイコットとは、反対の気持ちを示すために、商品を買ったり使ったりするのをやめることです。
当時、インドではイギリスの工場で作られた布や服が多く売られていました。ガンジーは、それを買うのをやめ、チャルカを使って自分たちの手で糸を紡(つむ)ぎ、布を作ることをすすめました。チャルカとは、手で糸を紡ぐための小さな糸車(いとぐるま)のことです。この道具は、インド人の自立を表す大切なシンボルになりました。
世界を動かした「塩の行進」
ガンジーの活動の中でも有名なのが、1930年の「塩の行進(しおのこうしん)」です。塩という身近なものを通して、イギリスの支配に対するインド人の不満を世界に伝えました。
生活に欠かせない塩への高い税金
塩は、料理や健康な生活に欠かせないものです。ところが当時のインドでは、イギリスが塩を管理し、人々が自由に塩を作ることをきびしく制限していました。さらに、塩には税金もかけられていました。
塩はお金持ちだけが使う特別な品ではありません。貧しい人も、子どもも、大人も、毎日の暮らしに必要とします。ガンジーは、生活に欠かせない塩に重い税がかかることは、多くの人を苦しめる問題だと考えました。
海をめざして歩き続ける長い旅
ガンジーは、仲間たちとともに海へ向かって歩き始めました。目的は、イギリスに決められたルールに従わず、自分たちの手で塩を作ることでした。
この行進は、アーメダバード近くの活動拠点から海辺の村ダンディまで続きました。距離は約390kmにもなり、ガンジーたちは何日もかけて歩きました。道の途中では、多くの人が行進に加わり、ガンジーの考えを知る人が増えていきました。
世界中からの注目と独立運動の広がり
ガンジーが海で塩を手にしたことは、インド人が自分たちの暮らしに必要なものを、自分たちで作る権利を求める意思表示でした。塩という身近なものを通して、イギリスの支配に反対する気持ちをはっきり示したのです。
この行動はニュースとして世界に伝わり、インド独立運動への注目が高まりました。ガンジーや多くの人々は逮捕されましたが、非暴力で抵抗する姿は、世界の人々に強い印象を残しました。塩の行進は、インド独立へ向かう運動を広げる大きなきっかけになったのです。
ガンジーについてのQ&A
Q. ガンジーが着ている白い服や、糸車にはどんな意味がありますか?
A. 白い服や糸車は、インド人が自分たちの力で暮らすことを表すシンボルでした。ガンジーはイギリス製の服を買うのをやめ、自分で糸を紡ぐことを大切にしました。これは、インド人の自立や誇りを示す行動でもありました。
Q. 「マハトマ」とはガンジーの本名ですか?
A. 「マハトマ」は本名ではありません。ガンジーの本名は、モーハンダース・カラムチャンド・ガンディーです。「マハトマ」は「偉大なる魂(たましい)」という意味で、詩人タゴールがそう呼んだことで広まったとされています。
Q. ガンジーはどのような最期を迎えたのですか?
A. ガンジーは1948年、インド独立後の宗教対立(ヒンドゥー教とイスラム教の争い)を止めようと活動している中で、反対派の男に銃(じゅう)で撃たれて亡くなりました。最期まで、暴力ではなく対話と助け合いで平和を守ろうとしていたことがうかがえます。
ガンジーは「非暴力」の心でインドの独立をめざしたリーダー
ガンジーは、暴力(ぼうりょく)ではなく、非暴力・不服従の運動でインド独立をめざした人物です。南アフリカでの差別体験をきっかけに、人々の自由と平等を求める活動を続けました。
塩の行進やボイコット運動は、毎日の暮らしの中から社会を変えようとした行動です。ガンジーに興味を持ったら、インドが独立するまでの歴史や、塩の行進で歩いた場所を調べてみましょう。身近な不公平に気づいたとき、暴力ではなくどのように考えを伝えられるか考えてみると、ガンジーの行動がより身近に感じられます。








































