坂本龍馬は何した人?日本の歴史に関わる3つの功績と人気の理由

身近な疑問

ワンダー 8

公開日2025.09.08

「坂本龍馬(さかもと りょうま)」という名前を歴史の授業などで聞いたことはありますか? 坂本龍馬は、江戸時代が終わろうとしていた「幕末(ばくまつ)」という激動の時代に、日本の未来のために活躍した人物です。 この記事では龍馬が「何をした人」なのか、その功績と魅力を分かりやすく解説します。 最後まで読めば、龍馬が今でも多くの人に愛される理由がきっと分かるはずです。

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坂本龍馬ってどんな人?泣き虫少年から歴史に名を残す人物になるまで

子どものころは気弱だったといわれる龍馬が、歴史に残る人物へと成長していった背景にはいくつかの重要な出会いと決断がありました。

武士の家に生まれた少年時代

坂本龍馬は、1835年に土佐藩(とさはん:現在の高知県)で生まれました。龍馬の家は、「郷士(ごうし)」という身分の武士でした。郷士とは、お城の周りから離れた土地で農業などもおこなう武士のことで、城下町に住む「上士(じょうし)」という身分の武士よりも低い立場とされていました。

5人兄弟の末っ子だった龍馬は、子どものころは少し気弱な少年だったそうです。そんな龍馬を姉の乙女(おとめ)は、学問や剣術の面で励まして心と体を鍛えました。龍馬が大人になって姉の乙女へ送った手紙がたくさん残っており、二人がとても仲の良い姉弟だったことが伝わってきます。

江戸での剣術修行と黒船との出会い

19歳になった龍馬は、剣術の腕をみがくために江戸(現在の東京)へ修行に出ます。そこで有名な道場に入門し、熱心に稽古に励みました。

龍馬が稽古に励んでいたその頃、日本の歴史を揺るがす大きな出来事が起こります。1853年にアメリカからペリーが、「黒船(くろふね)」と呼ばれる大きな蒸気船を率いてやってきたのです。

外国の進んだ技術や力を目の当たりにした龍馬は、「このままでは、日本が外国に支配されてしまうかもしれない」という強い危機感を抱き、日本の未来について真剣に考え始めるきっかけとなりました。

人生の師匠・勝海舟との出会い

日本の将来について考える中で、龍馬は幕府の役人であった勝海舟(かつ かいしゅう)と出会います。

龍馬は外国との交流を進めようとする海舟の考えに反対し、その考えを問いただそうとしていました。しかし、実際に会って話してみると、海舟が自分よりもずっと広い視野で世界の動きや、日本の未来を見ていることに気づいたのです。海舟の考えに感銘を受けた龍馬は、その場で弟子になることを決意したと伝えられています。龍馬は海舟のもとで航海術や世界について学び、大きく成長していきました。


日本の未来を考えた「脱藩」の決断

当時、自分が所属する藩から許可なく出ることは「脱藩(だっぱん)」と呼ばれており、大変重い罪でした。しかし、龍馬は土佐藩という一つの組織の中だけではなく、もっと広い立場で日本のために行動したいと強く願うようになり、龍馬は「日本の未来のために活動する」という大きな志を胸に脱藩を決断しました。これは自分の命をかけるほどの危険な行動でしたが、彼の「日本をより良い国にしたい」という強い想いがこの決断を後押ししたのです。

坂本龍馬が活躍した!日本の歴史に関わる3つの功績

故郷を飛び出した龍馬は、日本の歴史を動かす数々の功績を残していきました。
ここでは、龍馬が関わった重要な3つの功績を紹介します。

【功績1】敵同士を結びつけた「薩長同盟」に携わる

当時、幕府に対抗する勢力の中心であった薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)と長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県)は仲が悪いライバル同士でした。しかし、龍馬は薩摩藩と長州藩の仲介役として重要な役割を果たし、「薩長同盟(さっちょうどうめい)」が実現したのです。これが歴史を動かす大きなきっかけとなりました。

【功績2】平和的な時代の変化「大政奉還」を後押し

龍馬は、戦で多くの命が失われることを心配し、幕府が朝廷に政権を返す「大政奉還(たいせいほうかん)」を土佐藩に提案しました。この案は、土佐藩から徳川慶喜に進言され、最終的に実現されました。これにより、約260年続いた江戸幕府による政治は大きな戦乱を避けつつ終わりを告げるきっかけとなったのです。

【功績3】日本初の商社ともいわれる「海援隊」の設立

龍馬は、長崎に身分に関係なく仲間を集め「亀山社中(かめやましゃちゅう)」を設立しました。のちに土佐藩の支援を受け「海援隊(かいえんたい)」となりました。

海援隊は日本初の商社的な役割を果たした組織ともいわれています。船で物を運ぶ海運業や貿易を行い、新しい時代に必要な経済の力を追求しました。

なぜ坂本龍馬は今も人気?人をひきつける3つの理由

龍馬が亡くなっておよそ150年以上経った今でも、その人気はおとろえていません。
時代を超えて人々をひきつける龍馬の魅力とは何でしょうか。

【理由1】敵とも話し合い、協力できる力

龍馬の大きな魅力は、身分や考え方の違いを乗り越え、誰とでも対等に付き合える力です。敵だと考えられていた相手でも、まずは話を聞いて協力しようとしました。この姿勢が薩長同盟のような大きな成果につながったのです。

【理由2】新しい国の形を具体的に描いた構想力

龍馬は、ただ古い仕組みを壊すだけでなく、新しい日本の姿を具体的に思い描いていました。その考えがまとめられたのが、船の上で考えついたとされる「船中八策(せんちゅうはっさく)」です。そこには、さまざまな人材を集めて話し合いで政治を行う「議政局」の設置や未来の設計図が描かれていました。

【理由3】世界に目を向けた広い考え方

多くの武士が国内のことしか見ていなかった時代に、龍馬は常に世界の動きに目を向けていました。外国と貿易をして国を豊かにすることや、海軍の重要性を早くから理解し、海援隊の活動で実行に移しました。国や藩という枠にとらわれないスケールの大きさが龍馬の魅力です。

龍馬の想いと悲劇の最期

日本の未来のために走り続けた龍馬ですが、 その夢を実現する前に彼の人生は突然終わりを迎えます。

「日本をせんたくしたい」という手紙に込めた想い

龍馬は姉である乙女宛てに、たくさんの手紙を書きました。その中に、龍馬の考えをよく表している有名な一文があります。

「日本を今一度せんたくいたし申候」
これは、「今の日本を、もう一度きれいにしたい」という意味です。汚れた服を真っ白に洗濯するように、古くなった日本の仕組みや考え方を一度すべて洗い流し、新しい国に生まれ変わらせたい。この短い言葉に、龍馬の国を思う強い気持ちが込められています。

志半ばで命を落とした「近江屋事件」

大政奉還が実現し、新しい時代が始まろうとしていた1867年11月15日の夜に、京都の隠れ家「近江屋(おうみや)」で仲間の中岡慎太郎と語らっていた龍馬は突然何者かに襲われ、命を落としてしまいました。これが「近江屋事件」です。亡くなったとき、龍馬はまだ33歳という若さでした。新しい日本の誕生を誰よりも願い、そのために走り抜けた龍馬のあまりにも早すぎる悲しい最期でした。

誰が龍馬を暗殺したのか、その実行犯は京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)という幕府の警察組織であったという説が有力視されています。しかし、誰が黒幕として指示したのかについては今なお議論が続いており、歴史の大きな謎とされています。

坂本龍馬は何をした人?未来を見つめ続けた幕末の人物!

坂本龍馬は、幕末という混乱の時代に身分や立場の壁を越えて人々を結びつけ、日本の未来を真剣に考え抜いた人物です。
敵だった藩同士を結びつけたり、戦いをせずに時代を変える方法を考えたり、日本で初めての貿易チームのような組織をつくったりしました。その自由な発想と広い視野、そして日本の未来を願う強い気持ちが今も私たちの心をひきつけます。

もし龍馬についてもっと知りたくなったら、彼の故郷である高知県の「坂本龍馬記念館」などを訪ねてみるのもおすすめです。
龍馬の生き方には、「未来を自分たちでつくっていくことの大切さ」が詰まっています。あなたも龍馬のように周りの人と力を合わせて、新しいことに挑戦してみませんか。

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