「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 この有名な句から、織田信長に「短気で厳しい武将」というイメージを持っている人も多いかもしれません。 しかし、「織田信長って、具体的に何をした人?」と聞かれると、意外と答えられないのではないでしょうか。実は、先ほどの句も信長本人が言ったわけではないと伝えられています。 織田信長は、今から500年ほど前の「戦国時代」に、それまでの常識を次々と打ち破って歴史を大きく動かした武将です。 この記事では、「大うつけ」と呼ばれた少年が、いかにして天下を目指すヒーローになったのか、信長のすごさや、今も多くの人に愛される理由を分かりやすく解説します。さあ、一緒に信長の魅力を見つけにいきましょう。
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この記事のもくじ
織田信長ってどんな人?「うつけ」と呼ばれた少年時代
戦国時代のヒーローとして有名な織田信長。しかし若い頃は、周囲から「大うつけ(おおうつけ)」と呼ばれていたと伝えられています。一体どんな少年だったのでしょうか。
型破りな少年から、若きリーダーへ
信長は、今から約500年前の1534年に、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)を治める武将・織田信秀(おだ のぶひで)の子として生まれました。幼い頃の名前は「吉法師(きっぽうし)」といいます。
この頃の信長は、身分の高い武士の息子とは思えないような、変わった格好や行動で周りを驚かせていたと伝えられています。髪の結び方も普通とは違い、腰にひょうたんをぶら下げて歩き回るなど常識はずれな行動が目立ったため、人々は陰で「大うつけ(変わり者)」と呼んでいたそうです。
しかし、こうした行動には、信長の狙いがあったのかもしれません。
当時の織田家は、いつ誰がリーダーの座を奪うか分からない不安定な状態でした。そこで信長はわざと「自分はリーダーにふさわしくない」と周りに思わせて、敵を油断させていたという説があります。
この「うつけ者」の話がどこまで本当かは、はっきりと分かっていませんが、 信長が若い頃から周りをあっと言わせるような型にはまらない人物だったことは確かなようです。
天下に名をとどろかせた「桶狭間の戦い」での大勝利
「うつけ者」だと思われていた信長の名前が知れ渡るきっかけとなったのが、1560年の「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」です。
当時、駿河国(するがのくに:現在の静岡県)を支配していた力の強い大名、今川義元(いまがわ よしもと)が約2万5000人もの大軍を率いて尾張国に攻め込んできました。対する織田軍の兵力は、2000人ほどだったといわれています。
※軍の人数については、さまざまな説があります。
家臣たちでさえ「もう城にこもって戦うしかない」とあきらめかけていました。
しかし、信長は違いました。敵が油断しているのを見抜き、今川義元がいる本隊だけに狙いを定めます。そして、激しい嵐の中、自ら軍を率いて奇襲(きしゅう:相手が予期しない攻撃)をかけたのです。この作戦は見事に成功し、大勝利をおさめました。
この劇的な勝利によって「織田信長」の名前と常識にとらわれない彼の戦い方は、一気に天下に知れ渡ることになったのです。
織田信長が行った3つの改革
桶狭間の戦いで勝利した信長は、「天下統一(てんかとういつ)」という大きな夢に向かって、次々と新しい政策などを実行していきます。
【改革1】商業の自由化を進めた「楽市・楽座」
信長は、自分の城下町をにぎやかにするため「楽市・楽座(らくいち・らくざ)」という政策を行いました。
それまでの時代はお店を開いて商売をするためには「座(ざ)」と呼ばれる商人グループのような組織に入り、特別な許可やお金の支払いが必要でした。信長はこうしたルールをなくし、税を免除することで、誰もが自由に商売できるようにしたのです。
さらに、商人が自分の領地を通るときに払う通行料(関所)も一部廃止しました。これにより、多くの商人や職人が信長の城下町に集まってきて、町は活気に満ちあふれ、織田家の力はますます強くなりました。
※楽市・楽座は信長が初めてではありませんが、この仕組みを広い範囲で進めたことで有名です。
【改革2】戦に鉄砲を積極的に活用した
信長は、ヨーロッパから伝わったばかりの新しい武器「鉄砲」の力に早くから注目していました。その威力を天下に示したのが、1575年の「長篠の戦い(ながしののたたかい)」です。
この戦いの相手は、巧みな騎馬の活用で知られる武田勝頼(たけだ かつより)の精鋭部隊でした。これに対し信長は、大量の鉄砲と馬の突撃を防ぐ柵を用意し、柵の内側から鉄砲隊が一斉に攻撃するという戦術で武田軍をうち破りました。
※有名な「三段撃ち」については、実際にはおこなわれなかったという説もあります。
この戦いをきっかけに、戦の主役はそれまでの馬や刀から鉄砲へと移り変わっていったともいわれています。
【改革3】身分にとらわれず実力で家臣を登用した
信長は、家柄や生まれに関係なく、才能や実力のある人物を家臣として積極的に採用しました。これを「能力主義(のうりょくしゅぎ)」といいます。
その代表的な例が、のちに天下統一をなしとげる豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)です。秀吉は身分の低い家に生まれました。しかし、その才能を信長に見いだされ、次々と大きな仕事を任されます。そして、織田家でも重要な武将の一人へと出世していきました。
身分が低くてもチャンスが与えられたため、多くの優秀な人材が信長のもとに集まり、織田軍はどんどん強くなっていったのです。
※昔からの家臣も大切にしており、全員が実力だけで評価されたわけではありませんでした。
なぜ織田信長は「すごい」の?3つの能力
信長が、他の戦国武将と比べて特に「すごい」と言われるのはなぜでしょうか。
その理由は彼の優れた能力にあります。
1.常識にとらわれず、新しいことを思いつく発想力
2.海外の文化や新しい技術をすぐに取り入れる好奇心
3.人の才能を見抜き、活かす力
「楽市・楽座」のような新しい政策は、古いやり方にとらわれず「どうすればもっと良くなるか?」を考え抜く発想力から生まれました。
また、信長は新しい物への好奇心がとても強く、ヨーロッパから伝わった「南蛮文化(なんばんぶんか)」に大きな興味を持っていました。キリスト教の宣教師と交流して地球儀で世界について学び、マントのような西洋の服を着たりしたといわれています。この好奇心が、鉄砲のような新しい技術をいち早く戦に取り入れることにつながったのです。
そして、豊臣秀吉を見いだしたように人の才能を見抜く力も優れていました。家柄に関係なく、その人の能力が一番発揮できる仕事を与えることで、信長は自分の夢を実現する大きな力にしていきました。
夢の途中…信長の最期と後世への影響
数々の改革を進め、天下統一まであと一歩に迫っていた信長ですが、 その夢は突然、終わりを迎えます。
信頼していた家臣の裏切り「本能寺の変」
1582年6月2日、京都の本能寺(ほんのうじ)というお寺に泊まっていた信長は、信頼していた家臣の一人、明智光秀(あけち みつひで)に軍を率いて襲撃されます。これが歴史上有名な「本能寺の変」です。
完全に油断していた信長は、わずかな家臣とともに戦いました。しかし、逃げられないと分かると寺に火を放ち、自ら命を絶ったと伝えられています。49歳でした。
天下統一を目前にしたあまりにもあっけない最期でした。
光秀がなぜ信長を裏切ったのか、その本当の理由は今も歴史の大きな謎の一つとされています。
信長の夢は、次の世代へ
信長の死後、家臣だった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)がすぐに明智光秀を討ち、信長が進めていた天下統一の事業を引き継ぎました。そして秀吉の死後、徳川家康(とくがわ いえやす)が江戸幕府を開き、約260年も続く「江戸時代」を築きます。
信長自身は夢の途中で倒れてしまいましたが、彼が切り開いた「天下統一」への道は秀吉や家康へと受け継がれました。信長がいなければ、今の日本の歴史は全く違うものになっていたかもしれません。
今も愛される戦国のヒーロー
信長は、亡くなって450年近くが経った今でも非常に人気のある武将です。その大きな理由は、古い常識を次々と打ち破る強い意志と行動力、そしてドラマチックな人生にあるのでしょう。
現代でも信長は小説や映画、ゲームの主人公として数多く登場し、彼が築いた安土城(あづちじょう)の跡地は人気の観光スポットになっています。
織田信長は何した人?時代を動かした戦国武将
織田信長は、「うつけ者」と呼ばれながらも、知恵と行動力で戦国の時代を大きく変えた人物です。
天下統一の夢は途中で終わってしまいましたが、その強い意志と行動は豊臣秀吉や徳川家康へと受け継がれ、日本の歴史に大きな足あとを残しました。
彼の人生を知ると、「もっと自由に考えよう」「新しいことへの挑戦は大切だ」という勇気をもらえるかもしれません。
この記事を読んで信長に興味がわいたら、ぜひ関連する本を読んだり、ゆかりの地を訪ねてみてください。 きっと、たくさんの発見がありますよ!



































