2024年から新しい一万円札の顔が実業家の渋沢栄一(しぶさわえいいち)になりましたが、その前に約40年間もの長い間、一万円札の顔だった人物を覚えていますか?それが、「福沢諭吉(ふくざわゆきち)」です。「名前は知っているけれど、いったい何をした人だろう?」と改めて思った人もいるかもしれません。 この記事では、福沢諭吉がどんな少年時代を過ごし、日本の未来のためにどのようなことを成し遂げたのか、そしてなぜお札の顔に選ばれたのかを分かりやすく解説していきます。 一緒に福沢諭吉の生涯をたどってみましょう。
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この記事のもくじ
福沢諭吉ってどんな人?学ぶことが大好きだった少年時代
福沢諭吉は、今から200年近く前の江戸時代に生まれました。彼はどのように学び、世界へと目を向けるようになったのでしょうか。諭吉の少年時代から青年時代までのエピソードをのぞいてみましょう。
下級武士の家に誕生
福沢諭吉は1835年に大阪にあった中津藩(なかつはん)の蔵屋敷(くらやしき)で、下級武士の家に生まれました。当時の日本には厳しい身分制度があり、生まれた家柄で将来がほとんど決まっていました。諭吉は、能力があっても身分が低いと評価されない社会の仕組みに、子どもの頃から強い疑問を感じていたといいます。この経験が、のちに彼が「人は平等である」と考える大きなきっかけになったのかもしれません。
蘭学と英学に夢中だった日々
19歳になった諭吉は長崎へ行き、オランダの言葉や学問を学ぶ「蘭学(らんがく)」の勉強を始めます。その後、大阪にある緒方洪庵(おがたこうあん)の「適塾(てきじゅく)」に入門しました。 ここでの諭吉の勉強ぶりはすさまじく、約2年で最年少の塾頭(塾生のリーダー)になりました。
1858年に江戸で私塾を開いた諭吉に転機が訪れます。開港したばかりの横浜へ行くと、必死に学んだオランダ語がまったく通じず、聞こえてくるのは英語ばかりでした。
衝撃を受けた諭吉は「これからの時代は英語だ!」と決意し、独学で英語の勉強を始めたのです。
使節団の一員として見た欧米の世界
諭吉に大きなチャンスが訪れます。1860年、江戸幕府がアメリカへ派遣した使節団の一員として、咸臨丸(かんりんまる)という船で初めて海を渡ったのです。
諭吉はその後も、1862年にはヨーロッパ各国へ、1867年には再びアメリカへと、合わせて3度も海外を訪れました。そこで進んだ西洋の技術や病院、銀行に選挙といった社会の仕組みを目の当たりにし、大きな衝撃を受けたのです。
この海外での経験が、日本の近代化の必要性を強く感じさせるきっかけとなりました。
福沢諭吉は何をした人?3つの大きな功績
帰国した福沢諭吉は、海外の知識を日本に伝えるため精力的に活動します。
彼が成し遂げた3つの大きな功績を見ていきましょう。
【功績1】日本の近代化に大きく貢献した「西洋事情」の発刊
帰国した諭吉は自分が見てきた西洋の文化や社会の仕組みを日本人に伝えるため、「西洋事情(せいようじじょう)」という本を出版しました。欧米の政治や税金の仕組み、学校や病院のことまで分かりやすく解説したこの本は、たちまちベストセラーになります。
明治時代の新しい国づくりを進める人々にとって、この本は日本の近代化を進めるための手引書や参考書のような存在となりました。
【功績2】多くの人を育てた「慶應義塾」の設立
諭吉の功績として欠かせないのが、教育者としての一面です。江戸で開いた小さな私塾は、やがて「慶應義塾(けいおうぎじゅく)」と名付けられました。慶應義塾の画期的な点は、武士も町人も身分に関係なく誰でも学べたことです。諭吉は、これからの日本を支えるのは学問を身につけた人物だと考えました。ここで学んだ多くの塾生たちが、のちに日本のさまざまな分野で活躍していくことになります。
【功績3】ベストセラー「学問のすゝめ」の出版
明治時代が始まり、新しい時代を生きる人々のために出版されたのが有名な「学問のすゝめ(すすめ)」です。誰もが読みやすい言葉で書かれたこの本は、当時としては異例のベストセラーとなりました。なぜ勉強が大切なのか、学問が個人の自立と国の発展にどうつながるのかを説き、「学ぶこと」の価値を日本中に広めました。
なぜ福沢諭吉は歴史に名を残したの?
福沢諭吉が今なお尊敬される理由は、その行動の根底にあった時代を先取りした「考え方(思想)」にあります。
「天は人の上に人を造らず」に込められた意味
「学問のすゝめ」の冒頭にある「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は大変有名な一文です。これは「人は生まれながらに平等だ」という意味ですが、諭吉が本当に伝えたかったのはその続きにあります。彼は、「しかし、学ぶか学ばないかで、賢い人とそうでない人の差がつくのだ」と説きました。つまり、家柄ではなく、自分の努力、特に「勉強によって未来を切り開くことができる」と人々の背中を押したのです。
「独立自尊」という自分らしく生きる考え方
諭吉が大切にしたもう一つの考え方が「独立自尊(どくりつじそん)」です。これは「他人に頼らず自分の力で考え行動し、自分を大切にして誇り高く生きよう」という意味で、慶應義塾の基本精神にもなっています。一人ひとりが自立した個人として生きることの重要性を説いたこの思想は、現代を生きる私たちにとっても大切な指針です。
福沢諭吉のエピソードと今に伝わる影響
諭吉の活動は出版や教育だけにとどまらず、彼の知的好奇心と行動力は社会のさまざまな分野に影響を与えました。
自分の意見を発信した新聞「時事新報」の創刊
諭吉は人々に正しい情報を届け、自ら考えてもらうための新聞「時事新報(じじしんぽう)」を創刊しました。この新聞では、政治や経済の解説はもちろん、政府のやり方に対しておかしいと思ったことは、はっきりと批判もしました。これは情報をもとに人々が自分で考える「独立自尊」の社会を目指す重要な活動でした。
伝染病研究所の設立を支援するなど医学の発展への貢献
諭吉は、専門外の学問も積極的に支援しました。その代表が、近代日本の医学の父といわれる細菌学者の北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)との関係です。ドイツ留学から帰国後、研究所の設立に困っていた北里の才能と「日本の伝染病研究を世界レベルに引き上げたい」という熱意に感銘を受けた諭吉は私財を投じて支援することを決意します。
こうして設立された「伝染病研究所」は、のちに多くの命を救うことになります。
旧1万円札の顔になった理由
しかし、なぜ福沢諭吉が旧一万円札の肖像(しょうぞう)に選ばれたのでしょうか。
じつは「お札の顔に誰を選ぶか」は法律で決まっているわけではありませんが、 一般的には偽造防止(にせものをふせぐこと)の観点から精密な肖像が描けることに加え「国民から広く尊敬され、日本の文化や科学などの発展に大きく貢献した国際的にも知られた人物」が選ばれる傾向にあります。福沢諭吉はこの条件に合う人物だったのです。
福沢諭吉は、学びの力で未来を切り開いた人!
旧一万円札の顔として長い間、人々に親しまれた福沢諭吉は、自ら学び行動することで日本の新しい扉を開いた力強い思想家・教育者でした。
彼が説いた「学ぶこと」とは、知識を詰め込むだけではありません。世の中の仕組みを知り、自分の頭で考える力を養うことです。情報があふれる現代だからこそ、人に頼りきらず、自分らしく立つ「独立自尊」の精神が一層大切になります。
まずは身の回りの「なぜ?」を大切にしたり、ニュースを見て「自分ならどう思うか」を考えたりしてみませんか。その小さな探究心こそが、福沢諭吉が示した、未来を切り開く力につながっていくはずです。



































