ベートーヴェンはどんな人?耳が聞こえなくても作曲を続けた音楽家

身近な疑問

ワンダー 4

公開日2025.10.06

「ジャジャジャジャーン!」という力強いメロディーを聴いたことがありますか? この有名なフレーズを作ったのが、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンです。音楽室に飾られた少しこわい顔の肖像画を思い出す人もいるかもしれませんね。 ベートーヴェンは、音楽家にとって命ともいえる「聴く力」を失うという大きな試練を受けながらも、あきらめずに作曲を続けました。 この記事では「楽聖(がくせい)※」と呼ばれるベートーヴェンが、どんな人だったのかを分かりやすく紹介します。 ※楽聖…とてもすぐれた音楽家をたたえる言葉。

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ベートーヴェンはどんな人?子ども時代から才能を発揮

子どもの頃のベートーヴェンが、どのようにしてその才能を開花させていったのか、成長の道のりをたどってみましょう。

厳しい父親のもとで才能を伸ばした子ども時代

ベートーヴェンは1770年、現在のドイツ・ボンで生まれました。
おじいさんもお父さんも、宮廷(きゅうてい)※に仕えるプロの音楽家でした。

ベートーヴェンのお父さんは息子の才能に大きな期待をかけ、「第二のモーツァルト※」にしようと、幼い頃から厳しく音楽を教えたと伝えられています。夜中に眠っているのを起こして練習させたという話も伝承(でんしょう)として語られています。
大変な環境ではありましたが、ベートーヴェンの才能は伸びていきました。少年時代からピアニスト、そして作曲家として、周りの大人たちがおどろくほどの才能を見せ始めたのです。

※宮廷…王や皇帝に仕える人々が集まり、仕事や儀式(ぎしき)を行うところ。
※モーツァルト…ベートーヴェンが子どもの頃に大活躍していた作曲家。

音楽の都ウィーンでたちまち人気者に

青年になったベートーヴェンは、音楽の都ウィーンに移りました。そこで有名な作曲家ハイドンに師事し、さらに多くの先生から学びながら、音楽家としての力を伸ばしていきました。当時のウィーンでは即興演奏(そっきょうえんそう)※がとても人気でした。ベートーヴェンの力強い演奏は評判を呼び、次第に注目される存在になっていったのです。

※即興演奏…楽譜を使わず、その場のアイデアで音楽を作りながら演奏すること。

音楽家人生の危機!「耳の病気」との闘い

ウィーンで成功を収めたベートーヴェンでしたが、音楽家としての危機が訪れます。少しずつ耳が聞こえなくなっていく、原因がはっきりしない進行性(しんこうせい)の難聴(なんちょう)に苦しむようになったのです。

聞こえなくなる恐怖と「ハイリゲンシュタットの遺書」

20代後半から、ベートーヴェンは耳の不調に悩まされるようになりました。音楽家にとってこれは致命的な問題です。

1802年には「ハイリゲンシュタットの遺書(いしょ)」と呼ばれる手紙を弟たちに書いています。そこには、「もう生きていけない」という絶望した気持ちが正直に書かれていました。

しかし、彼は死を選ばずに「まだ作るべき音楽がある」と決意しました。耳が聞こえないという苦しみを抱えながらも、創作を続ける道を選んだのです。

耳が聞こえなくても作曲を続けられた理由

ベートーヴェンは、頭の中で音を思い描く「内聴(ないちょう)」に優れていました。完全ではありませんがこの力が彼を大きく支えました。

晩年には、ピアノに棒を当てて骨を通じて振動を感じ取ろうとする工夫もあったと伝えられています。

苦しみの中から生まれた名曲たち

ベートーヴェンの苦しみと情熱は、やがて多くの名曲につながっていきました。

・交響曲第3番「英雄」
はじめはナポレオンにささげるつもりでしたが、彼が皇帝になったと知ると激しく失望し、曲の表紙に書いた名前を消したと伝えられています。結果としてこの「英雄」は、困難に立ち向かうすべての人を表す曲になりました。

・交響曲第5番「運命」
冒頭の「ジャジャジャジャーン!」は、運命が扉をたたく音のようだといわれます。病気や孤独と闘ったベートーヴェンの強い決意が、この力強い音楽に表れています。

・ピアノソナタ第14番「月光」
静かで美しい旋律(せんりつ)が特徴の曲です。後に詩人が「月光に照らされた湖のようだ」と例えたことから「月光ソナタ」と呼ばれるようになりました。

・交響曲第9番「第九」
耳がまったく聞こえなくなってから完成した大作です。「歓喜(かんき)の歌」に込められた「人はみな兄弟」という願いは、今も平和のメッセージとして歌い継がれています。

ベートーヴェンの素顔とは?

「怖そうな人」というイメージを持たれがちなベートーヴェンですが、実際はどんな性格だったのでしょうか。

正義感が強く、ちょっと頑固なこだわり派

ベートーヴェンは短気で頑固な面がありました。自分の音楽に強い自信を持っていたため、相手が身分の高い貴族であっても、間違っていると思えばはっきり意見を言いました。あるときは友人の侯爵(こうしゃく)※に「あなたの身分は生まれつきのもの。しかし、私の地位は努力で手に入れたものです」と書き送ったこともあったといわれています。

その一方で、毎朝きっちり60粒のコーヒー豆を自分で数えていれるなどの生活ルールに強いこだわりを持つ、少し変わった一面もあったと伝えられています。

※侯爵:ヨーロッパ貴族の身分の一つ。

友人と家族に支えられて

気難しい性格を持ちながらも、ベートーヴェンのまわりには多くの友人がいました。耳が聞こえなくなってからも、彼を支え続ける人々がいたのです。

また、甥(おい)のカールを深く愛しましたが、厳しく接しすぎたため関係がこじれてしまうこともありました。
ベートーヴェンは孤独な天才ではなく、人との関わりに悩みながら生きた人間らしい人物だったのです。

ベートーヴェンがその後の音楽家たちに与えた影響

ベートーヴェンの音楽は、それまでの常識を大きく変えました。
古典派(こてんは)の時代は「形」や「ルール」を大切にする考えが強かったですが、ベートーヴェンはそこに自分の感情や考えをはっきりと表す道を広げていきました。

また、作曲家の生き方にも影響がありました。当時、音楽家は王様や貴族に仕え、注文どおりに曲を作ることが一般的でした。ベートーヴェンは、ファンの支援や自分で開くコンサート、楽譜の出版で生活する自立した芸術家として歩みました。こうした動きが、「名前で作品を世に出す芸術家」という姿を広めるきっかけになりました。

作品の面でも、新しい試みが見られます。交響曲第6番「田園(でんえん)」では自然の情景を音で感じられるようにし、交響曲第7番では全体を貫く力強いリズムを示しました。さらに交響曲第9番は合唱取り入れ、音で物語や願いを伝える方向を強めました。これらの大胆な試みは、のちのロマン派※へと続く道を開いたのです。
ベートーヴェンの音楽は、今も作曲家たちの大きな目標となり、学ばれ続けています。

※ロマン派:19世紀に広がった音楽の流れ。形よりも感情や物語を大切にするのが特徴で、ショパンなどが活躍した。

ベートーヴェンの人生が教えてくれること

ベートーヴェンは耳が聞こえなくなるという絶望を抱えながらも、「あきらめない心」で数々の名曲を残しました。

1827年、56歳で亡くなったときには、とても多くの人が葬儀(そうぎ)に集まったと伝えられています(数千人~2万人規模とする説がある)。それほど多くの人に愛される存在だったのです。

彼の人生は、困難に立ち向かい続けることの大切さを教えてくれます。もし今、勉強や人間関係で壁にぶつかっているなら、ベートーヴェンの音楽が背中を押してくれるかもしれません。

ぜひ、交響曲「運命」や「第九」を聴いてみてください。音楽配信サービスや動画サイトでも楽しめます。ベートーヴェンの力強い旋律(せんりつ)の奥にある「生きる力」を感じ取ってみましょう。

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