聖徳太子(しょうとくたいし)は、昔のお札にも描かれた有名な歴史上の人物ですが、「何をした人?」と聞かれると、意外と知らないかもしれません。この記事では、聖徳太子が生きた時代や、国のために行ったとされる仕事、そして今に伝わるエピソードを分かりやすく紹介します。
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聖徳太子ってどんな人?
今から1400年以上も昔の「飛鳥時代(あすかじだい)」に、天皇を助けて活躍したとされる皇族、それが聖徳太子です。しかし、その人物像は多くのナゾと伝説に包まれています。
本名は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」
実は「聖徳太子」という名前は、亡くなったずっと後になって、その偉大な功績をたたえて贈られた尊称(そんしょう)※でした。本当の名前は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」(教科書によっては「厩戸王(うまやどのおう)」とも書かれる)だったと伝えられています。お母さんが宮殿の馬小屋の前で皇子を産んだという伝説からこの名がついたと言われています。
※尊称:尊敬を込めて呼ぶ名前。
一度に10人の話を聞き分けたという超人伝説
聖徳太子がいかに賢い人物であったかを物語る有名な伝説があります。それは、10人もの人が同時に訴えてきたことを完璧に聞き分け、それぞれに的確なアドバイスをしたというものです。
これは、後世の人々が「聖徳太子はこんなにもすごい人だったんだ」と伝えるために、尊敬の気持ちを込めて作ったエピソードの可能性が高いです。しかし、このような伝説が生まれるほど、人々の話をしっかり聞き、正しい判断ができる人物だと考えられていたことがわかります。
有力な豪族たちが争っていた「飛鳥時代」とは
聖徳太子が生きていた飛鳥時代は、天皇(当時は大王(おおきみ)とも呼ばれた)を中心とする国づくりが進められていましたが、豪族(ごうぞく)※たちの力も非常に強く、政治の主導権をめぐって激しく争っていました。特に、新しい考えである仏教を受け入れたい蘇我氏(そがし)と、古くからの神を大切にしたい物部氏(もののべし)の対立は深刻でした。
※豪族:その土地で昔から大きな力を持つ一族のこと。
聖徳太子は何をした人なの?
豪族同士の争いが続くなか、日本は国内を一つにまとめ、隣の強大な国「隋(ずい)」とも向き合う必要がありました。
そこで、推古天皇(すいこてんのう)という女性天皇が即位し、叔父である有力豪族の蘇我馬子(そがのうまこ)や、甥である聖徳太子たちと協力して、新しい国づくりを進めるチームが結成されました。聖徳太子は、その中心メンバーの一人として重要な役割を果たしたのです。
家柄だけでなく才能も評価する「冠位十二階」の制定
当時の朝廷では、家柄によって役人の地位が決まるのが当たり前でした。この仕組みを変えるために作られたのが「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」です。この制度は家柄だけでなく、個人の才能や国への貢献度を評価して、12段階の位と色の違う冠を授けるというものでした。これにより、役人たちのやる気を引き出し、より良い政治を目指しました。
役人の心構えを示した「十七条憲法」の制定
次に定められたのが「十七条憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)」です。これは今の法律とは違い、「役人として国のために働く上で守るべき心構え」を17か条で示したものです。
有名な第一条「和を以て貴しと為す(わをもってとうとしとなす)」には、「みんなが和の心を大切にし、しっかり話し合うことが重要だ」という意味が込められており、チームで協力していくことの大切さを説いています。
対等な国としてアピール!「遣隋使」の派遣
進んだ文化や制度を学ぶため、推古天皇たちは小野妹子(おののいもこ)という男性の役人らを隋に派遣しました。これを「遣隋使(けんずいし)」といいます。
この時、隋の皇帝に渡した手紙にあったとされる「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という一文は、日本が隋と対等な国であることを示そうとした強い意志の表れとして語り継がれています。
現代にも伝わる聖徳太子の「心」
聖徳太子たちの影響は政治の仕組みだけではありません。仏教を深く信じ、その教えを広めることで、日本の文化にも大きな足跡を残しました。
平和な国を願って建てたお寺「法隆寺」
聖徳太子は仏教の教えが国を平和に導くと考え、立派なお寺をいくつも建てたと伝えられています。その代表が世界最古級の木造建築として世界遺産にも登録されている奈良の「法隆寺(ほうりゅうじ)」です。
法隆寺は、聖徳太子が暮らした斑鳩(いかるが)※の地に建てられ、仏教信仰の中心であると同時に、飛鳥時代の優れた建築技術や美しい仏像などを今に伝える場所になっています。
※斑鳩:現在の奈良県生駒郡斑鳩町を中心とした地域のこと。
今も大切にしたい「和」の精神
十七条憲法の「和を以て貴しと為す」という考え方は、1400年以上たった現代を生きる私たちにとっても大切な教えです。
聖徳太子が伝えたかった「和」の心とは、ただ周りの人に意見を合わせることではありません。一人ひとりの違う意見を尊重し、きちんと話し合い、みんなが納得できるより良い答えを見つけ出していくことです。これは学校のクラス活動や、社会に出てからのチームワークにも通じる精神と言えるでしょう。
もっと知りたい!聖徳太子のQ&A
聖徳太子については、研究が進むにつれて「実はこうだったかもしれない」という新しい説が次々と出てきています。最後に、よくある疑問に答えます。
Q1.聖徳太子は実在しなかったって本当?
「聖徳太子」という人物が、伝えられる功績のすべてを行ったかどうかについては、今も議論が続いています。しかし、「日本書紀」という歴史書には推古天皇の政治を助けた「厩戸皇子」という皇子が登場することから、モデルとなった皇族がいたと考える研究者が多いです。
Q2.昔のお札の顔は、本当の聖徳太子じゃないの?
残念ながら、私たちがよく知る聖徳太子の肖像画は、聖徳太子本人を見て描かれたものではありません。昔のお札に使用された肖像画は、ずっと後の時代の人が、「偉大な聖徳太子はきっとこのような顔だったに違いない」と想像して描いた理想の姿だと考えられています。
Q3.聖徳太子ゆかりの場所は今でも見に行ける?
見に行くことができます。代表的な場所は、世界遺産でもある奈良の「法隆寺」や、大阪の「四天王寺(してんのうじ)」です。また、大阪府太子町(たいしちょう)には聖徳太子が眠るとされるお墓「叡福寺北古墳(えいふくじきたこふん)」もあります。
聖徳太子は新しい国の仕組みをつくったすごい人!
聖徳太子は豪族が争う不安定な時代に、推古天皇や蘇我馬子たちと協力し、天皇を中心とした強い国をつくるために力を尽くした歴史上の人物です。
「冠位十二階」や「十七条憲法」などの仕組みづくりに関わり、「和」の精神は1400年以上たった現代の私たちにも受け継がれています。
歴史を学ぶ面白さは、新しい発見によって人物のイメージが変わっていくところにあります。「一人のスーパーヒーロー」という見方だけでなく、「チームで国を動かした重要メンバー」という視点で見ると、聖徳太子のすごさがまた違って見えてきませんか?歴史上の人物の姿を探求していくと、新しい発見がたくさんあります。ぜひ、聖徳太子だけでなく、色々な歴史人物についてもっと深く調べてみてくださいね。



































