昔の千円札に描かれていた人物をご存じでしょうか?世界で活躍した日本人細菌学者である野口英世(のぐち ひでよ)です。 野口英世は、順調な人生を歩んだわけではありませんでした。小さなころの大やけどや貧しい家庭環境という困難を乗り越え、世界で活躍する研究者となった人物です。 この記事では、野口英世の生い立ちや研究、努力の物語を分かりやすく紹介します。
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コンプレックスを力に!野口英世の少年時代
野口英世が「世界で活躍した細菌学者」として知られるようになるまでには、どんな子ども時代があったのでしょうか。ここでは、彼が生まれ育った環境や、人生を大きく変えた出来事について見ていきましょう。
貧しい農家での誕生と人生を変えた大やけど
野口英世は、1876年に福島県猪苗代(いなわしろ)の自然豊かな地で、「清作(せいさく)」として生まれました。家はとても貧しく、毎日の食事にも困るほど大変な暮らしでした。
彼が1歳のとき、人生を大きく左右する事故が起こります。囲炉裏(いろり)※の火の中に落ちてしまい、左手に重いやけどを負いました。指はくっついたまま固まり、自由に動かすことができなくなりました。
その手を見た友達から心ない言葉でからかわれたり、農作業がうまくできなかったり、清作は数えきれないほど悔しい思いをします。しかし、このつらい経験から生まれた「いつか見返してやる!」という強い気持ち、つまり「負けん気」が、彼の人生を動かす大きなエネルギーになりました。
※囲炉裏(いろり):昔の日本の家屋で、床を四角く切り抜いて火を燃やし、暖房や調理に使った場所。
恩師の助けで乗り越えた手術
勉強を頑張って小学校へ進んだ清作に転機が訪れます。先生や同級生たちが、「清作の手を治してあげたい」と、手術のためのお金を集めてくれたのです。会津若松の病院で行われた手術は成功し、動かなかった指が少しずつ開くようになりました。
この経験から、「医学はなんて素晴らしいのだろう!自分も医者になって、病気で苦しむ人を助けたい!」と、彼に医師になるという夢を与えました。
「野口清作」から「英世」への改名
医者を目指して勉強していたある日、偶然読んだ小説に自分とよく似た名前で、なまけ者の医学生が登場し、ショックを受けます。「自分は絶対にこんな人間にはならない」という思いから彼は、自分の名前を「英世(ひでよ)」に変えました。「世に秀でる(=すぐれた人になる)」という願いを込めた名前です。
野口英世は何をした人?細菌学者としての功績
研究者として注目されるようになった野口英世は、どのような病気の研究を行い、どんな成果を残したのでしょうか。ここでは、彼の主な研究内容とその後の評価について紹介します。
猛勉強の末の医師免許取得
上京した英世には、学費はもちろん、生活のためのお金もほとんどありませんでした。しかし、彼の才能と熱意に心を動かされた人々が、住む場所や勉強の機会を与えてくれます。
期待に応えるため、英世は寝る間も惜しんで猛勉強に励みました。
その並々ならぬ努力の結果、わずか20歳で医師になるための試験に合格します。
アメリカで花開いた研究者としての才能
医師になった英世は、「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎(きたさと しばさぶろう)※のもとで働きます。そして、さらに広い世界で研究したいという夢をふくらませ、アメリカへ渡りました。
英世はアメリカでヘビの毒の研究で成果をあげ、世界でも有名なロックフェラー医学研究所の研究員になります。英世は「Dr.ノグチ」として国際的に知られるようになりました。
※北里柴三郎:破傷風菌の治療法を発見するなど、日本の近代医学を築いた医学者。2024年から発行された新しい千円札の顔としても知られている。
ノーベル賞候補にもなった研究
英世が注目された研究の一つが、神経梅毒(しんけいばいどく)に関するものでした。英世は、この病気の患者の脳に「スピロヘータ」と呼ばれる細菌がいることを見つけ、「梅毒が脳に影響するのではないか」と発表しました。
この研究は当時大きな話題となり、英世はノーベル賞の候補にも名前があがったそうです。ところが後になって、「見つけた菌は本当の原因ではなかったのでは?」といわれるようになりました。
つまり、今の科学から見ると正確ではなかった部分もありますが、神経梅毒の研究を進めるきっかけを作ったことは高く評価されています。
※スピロヘータ:うねうねと動く細長い細菌。梅毒の原因になることで知られている。
黄熱病の謎に命がけで挑んだ最後の研究
英世の挑戦は、まだ終わりませんでした。彼が最後に挑んだのは、多くの命を奪っていた黄熱(おうねつ)という恐ろしい感染症です。
英世は、南米エクアドルで研究をし、「黄熱病の原因を見つけた」と発表しました。しかし、その後の研究で、黄熱病ではなく症状がよく似た「ワイル病」という別の病気の菌だったことが分かりました。黄熱病の本当の原因は、細菌よりももっと小さいウイルスだったのです。他の研究者が同じ菌を見つけられなかったこともあり、英世自身も「自分の発見は、本当に正しかったのだろうか?」と強く疑問を抱くようになります。
真実をこの目で確かめるため、英世は黄熱が流行していたアフリカのガーナへ向かいます。けれども研究の途中で、自ら黄熱病にかかってしまいました。
1928年に51歳で亡くなる直前、彼は「私にはわからない」という言葉を残したと伝えられています。これは科学の難しさを知り、最後まで本当の答えを追い求め続けた彼らしい言葉だったのかもしれません。
なぜ野口英世は旧千円札の顔に選ばれたの?
野口英世は、なぜたくさんの日本人の中から「千円札の顔」に選ばれたのでしょうか。
ここでは、その理由について考えてみましょう。
逆境に負けない努力の姿
貧しい農家に生まれ、手にハンディキャップを負いながらも、人一倍の努力で世界的な学者になったことも理由の一つです。その姿が、多くの日本人に勇気と希望を与える「日本の誇り」だと評価されました。
国際的な活躍と知名度
英世は、早くから海外に渡り、世界を舞台に活躍した日本人科学者の先駆けでした。また、伝記などを通じて子どもから大人まで広く知られており、誰もが知る偉人としてふさわしいとされました。
偽造防止に有効な特徴的な顔立ち
少し技術的な理由ですが、お札の顔には偽造されにくいという役割もあります。野口英世の特徴的なひげのある顔立ちは、細かく再現するのが難しく、偽札防止に役立つという利点もあったといわれています。
野口英世は、あきらめない心で病気の研究に挑み続けた!
野口英世は、幼いころの左手に大やけどを負い、貧しい環境で成長しました。大人になってからは、数々の失敗と批判に直面しています。それでも諦めることなく、「病気で苦しむ人を救いたい」という強い思いを胸に世界各地で研究に挑み続けた人物です。
その成果の中には現代では見直されたものもありますが、限られた道具と知識しかなかった時代に、命をかけて病気の正体を探ろうとした姿勢は今も多くの人の心を動かします。
彼の故郷・福島県猪苗代町には「野口英世記念館」があり、生涯の歩みや実際に使った研究道具などを見ることができます。また、図書館や書店には、子どもから大人まで読めるさまざまな英世の伝記があります。
もし機会があれば記念館に足を運び、彼の人生にふれてみてください。「あきらめなければ道は開ける」というメッセージは、きっとあなたの心にも響くでしょう。



































