鑑真(がんじん)という名前を社会や歴史の授業で聞いたことがあるかもしれません。彼は、仏教の「戒律(かいりつ)」を日本に伝えるという強い使命のため、度重なる航海の失敗や失明という苦難に見舞われながらも、ついに来日を果たした人物です。 この記事では、鑑真がどんな人で、なぜ日本に来たのか、そしてどんな影響を与えたのかをわかりやすく紹介します。
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鑑真ってどんな人?
鑑真は、奈良時代に中国(唐)から来た高僧です。日本に仏教の正式なルール(戒律)を伝えるため、日本人の僧からの熱心な要請に応えました。渡航は困難を極め、嵐や病気で5回失敗し、失明する苦難を乗り越えて、6回目にして日本に到着した人物です。
鑑真の生まれと中国での活動
鑑真は西暦688 年、中国の揚州(ようしゅう)という町で生まれました。唐(とう)という国の時代で、仏教が盛んに広まっていたころです。日本の歴史でいうと飛鳥時代の終わりごろにあたります。
鑑真は14歳で仏教の世界に入り、熱心に勉強や修行を重ねます。やがて、仏教の中でも「律宗(りっしゅう)」という教え(戒律を重んじる宗派)を深く学び、多くの僧侶たちから尊敬される立派な高僧(こうそう:徳の高いお坊さん)になりました。
ちなみに、鑑真は「鑑真和上(がんじんわじょう)」とも呼ばれます。これが鑑真のフルネームというわけではなく、「和上」とは、徳の高い僧侶への尊敬を込めた呼び名です。
鑑真が日本へ行こうと決めた理由
当時、日本の仏教界には大きな悩みがありました。それは、「正式な僧侶になるためのルール」がしっかりと確立されていなかったことです。
このルールを「戒律(かいりつ)」と呼びます。戒律を授ける儀式「授戒(じゅかい)」を行える高僧が、当時の日本にはいなかったのです。
そこで742 年、日本から唐に留学していた僧侶、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が、鑑真のもとを訪れます。彼らは「どうか日本に来て、正しい仏教の戒律を伝えてください」と鑑真に熱心にお願いしました。
鑑真はこの願いを受けて、「仏教を正しく広めることが自分の使命だ」と感じ、日本への渡航(とこう:海を渡って行くこと)を決意しました。
日本に来るまでの苦難
しかし、日本への渡航は簡単なことではありませんでした。当時の船は小さく、航海の技術も未熟だったため、命がけの旅だったのです。
鑑真は、日本へ行くために何回も渡航に挑戦しました。しかし嵐で船が難破したり、役人に出発を止められたり、失敗が続きます。信頼していた弟子の栄叡は病気で亡くなり、鑑真自身も、旅の疲れや病気が原因で失明してしまいます。両方の目が見えなくなってしまったのです。
それでも鑑真はあきらめませんでした。6回目の挑戦で、ついに日本の地を踏むことができたのです。753 年、鑑真が66歳の時でした。
鑑真は日本で何をした人なの?
鑑真は、日本で初めて仏教の正式なルール(戒律)を授ける儀式「授戒(じゅかい)」の制度を確立した人です。東大寺に戒壇(かいだん)を設け、聖武太上天皇から多くの僧侶まで戒律を授けました。また、奈良に「唐招提寺」を建立したほか、医療や建築、芸術など唐の進んだ文化を日本に伝えた功績もあります。
僧や信徒に戒律を授けた
鑑真が日本に来てまず行ったのは、「授戒(じゅかい)」です。授戒とは、仏教の戒律を授ける儀式のことです。
これには、正式な僧侶になるためのものと、天皇や貴族のように、お坊さんにはならずに仏教を信じる人(信徒)が受けるものがありました。
鑑真は、奈良の東大寺に「戒壇(かいだん)」という授戒のための特別な場所を日本で初めて設けました。ここで聖武太上天皇(しょうむだじょうてんのう:天皇の位をゆずった聖武天皇のこと)や光明皇太后(こうみょうこうたいごう:聖武太上天皇のお妃)をはじめ、約400 人以上もの人々が鑑真から戒律を受けました。
唐招提寺を建てた
鑑真は、戒律を学び、修行するための中心的な場所として、奈良に「唐招提寺(とうしょうだいじ)」というお寺を建てました。
唐招提寺は、鑑真が伝えた律宗の総本山(そうほんざん:中心となるお寺)となりました。このお寺は、当時の最先端だった唐の建築技術で建てられ、1998 年には世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として登録されています。
中国の医療や文化を伝えた
鑑真が日本に伝えたのは、仏教だけではありません。彼は、唐の進んだ文化や知識も日本に伝えました。
特に知られているのが、医療の知識です。鑑真は多くの薬草(漢方薬のもと)を日本に持ってきたり、薬の知識を伝えたりしました。当時の日本では、病気の治療法がまだ十分ではなかったため、鑑真が伝えた医療知識は人々の健康を守るために役立ったといわれています。
また、鑑真と彼が連れてきた弟子たちは、建築、彫刻、書道、絵画などの高い技術も伝えました。唐招提寺の美しい建物や仏像は、その影響を強く受けています。
鑑真の人物像と功績
鑑真の大きな功績は授戒制度を確立し、日本の仏教界の質を高めたことです。また、唐の進んだ文化を伝え、後の日本文化にも影響を与えました。失明しても来日を果たした強い意志と、多くの人から慕われる穏やかな人柄をあわせ持った人物だったとされます。
鑑真が日本に与えた影響は?
鑑真が来日したことによって、日本の仏教は「きちんと学べるもの」「守るべきルールがあるもの」へと変わりました。
それまでは、正式な手続きをせずに「自分は僧侶だ」と名乗る人もいましたが、授戒の制度ができたことで、僧侶の質が向上し、仏教界の秩序が整いました。
また、唐招提寺を通じて伝えられた建築や芸術も、後の日本文化に大きな影響を与え続けています。
鑑真の性格や人柄
6回も渡航に挑戦し、目が失明してもあきらめなかったことからも分かるように、鑑真は非常に強い意志と忍耐力を持った人でした。日本に正しい仏教を伝えるという使命感が、鑑真を支えていたのでしょう。
同時に、とても穏やかな性格で、一緒に苦難を乗りこえた弟子の普照をはじめ、多くの人々から深く慕われていたそうです。
鑑真に関する豆知識
鑑真と共に奈良時代に活躍した僧侶に「行基(ぎょうき)」がいますが、行基が社会事業を行ったのに対し、鑑真は戒律を伝えました。鑑真にゆかりの深い唐招提寺には、彼の姿を写した日本最古の肖像彫刻「鑑真和上坐像」(国宝)が安置されています。
鑑真と行基の違いは?
奈良時代の仏教を語る上で、鑑真とともによく登場するのが「行基(ぎょうき)」という僧侶です。二人の違いを簡単に見てみましょう。
行基:日本生まれの僧侶です。橋をかけたり、道をつくったり、人々の生活を助ける活動を積極的に行いました。東大寺の大仏づくりにも協力しました。
鑑真:中国から来た僧侶です。仏教のルール(戒律)を伝え、授戒の制度を確立しました。
活動した場所や内容は違いますが、どちらも奈良時代の日本に大きな貢献をした高僧です。
鑑真ゆかりの地とは?
鑑真にゆかりの深い場所といえば、やはり奈良にある唐招提寺です。鑑真が亡くなるまで過ごした場所であり、鑑真のお墓もこの唐招提寺にあります。
唐招提寺の御影堂(みえいどう)には、有名な「鑑真和上坐像(がんじんわじょうざぞう)」(国宝)がまつられています。
これは、日本に現存する最も古い肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)とされ、鑑真が亡くなる直前に、弟子がその姿を写して作ったと伝えられています。鑑真がどんな顔をしていたのかを今に伝える、非常に貴重な文化財です。
鑑真が日本にもたらしたもの
鑑真は、奈良時代に中国から来た高僧です。日本からの招待を受け、正しい仏教の戒律を伝えるため、6回もの渡航に挑戦しました。その途中で失明してもあきらめず、ついに来日を果たします。
日本では授戒の制度を確立し、唐招提寺を建てて律宗を広めました。また、医療や芸術といった文化も伝え、日本の社会に大きな影響を与えました。
奈良の唐招提寺を訪れる機会があれば、ぜひ鑑真の偉業に思いをはせてみてください。教科書の中の出来事が、一人の人間の強い意志によって成し遂げられたことを実感でき、歴史をより身近に感じられるきっかけになるかもしれません。
鑑真に関するQ&A
Q. 鑑真って、簡単に言うと何をした人?
A. 鑑真は、奈良時代に中国(唐)から日本に来て、「仏教の正式なルール(戒律)」を伝えた偉いお坊さんです。当時の日本には戒律を正しく授けることができる人がいなかったため、招待されました。彼のおかげで、日本の仏教は質が高まり、秩序が整いました。
Q. なぜ日本に来るのがそんなに大変だったの?
A. 当時の船は小さく、航海の技術も未熟だったため、中国から日本への旅は命がけでした。鑑真は嵐で船が難破したり、政府に出発を止められたりして、5回も渡航に失敗しました。その間に仲間を失い、鑑真自身も病気で目が見えなくなってしまいました。
Q. 鑑真は仏教以外に何をもたらしたの?
A. 鑑真と弟子たちは仏教の戒律だけでなく、当時の中国(唐)の進んだ文化や知識も日本に伝えました。特に有名なのが医療の知識で、多くの漢方薬(薬草)をもたらし、薬の知識を広めました。ほかにも、建築、彫刻、書道などの高い技術も伝え、日本の文化に大きな影響を与えました。



































