みなさんは、「卑弥呼(ひみこ)」という名前を聞いたことがありますか?日本の歴史の教科書に必ず登場する、古代日本の有名な女王です。 しかし、どんな人で、何をしたのかを詳しく知っている人は少ないかもしれません。この記事では、女王・卑弥呼がどんな人物だったのか、そして彼女が治めた「邪馬台国(やまたいこく)」はどこにあったのかなどをわかりやすく紹介します。
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卑弥呼ってどんな人?
卑弥呼は、弥生時代末期に争いの多かった日本(倭国)を治めた女王です。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、卑弥呼は「鬼道(きどう)」と呼ばれる占いやまじないの力で人々をまとめ、弟が政治を補佐していたとされます。非常にミステリアスな人物として知られています。
卑弥呼が生きた「弥生時代」とは
卑弥呼が生きたのは「弥生時代(やよいじだい)」の終わりごろです。弥生時代は、稲作(お米づくり)が日本に広まり、人々が特定の場所に定住して村を作るようになった時代です。
村が大きくなるとやがて「クニ(国)」に発展していきます。しかし、豊かな土地や水をめぐってクニ同士の争いも絶えませんでした。当時の日本は「倭国(わこく)」と呼ばれており、小さなクニがたくさん集まっている状態でした。
つまり、卑弥呼が登場したのは、多くのクニが互いに争う乱れた世の中だったのです。
「魏志倭人伝」に書かれた卑弥呼
卑弥呼に関する情報は、中国の歴史書「三国志(さんごくし)」の中にある「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」という部分に書かれています。これは、当時の中国の王朝「魏(ぎ)」から見て、倭国(日本)に住む人々の様子を記した記録です。
魏志倭人伝には、卑弥呼について「鬼道(きどう)を事とし、よく衆(しゅう)を惑(まど)わす」と書かれています。ここでいう「鬼道」とは、まじない(お祈り)や占いのことです。つまり卑弥呼は、神様にお祈りをしたり、未来を占ったりする、巫女(みこ)やシャーマンのような不思議な力で人々をまとめていた女性だったと考えられます。
また、政治(国の運営)は弟が補佐していたとも書かれています。卑弥呼はあまり公の場に姿を見せず、弟と役割分担しながら国を治めていたのです。
卑弥呼が治めた邪馬台国とは
邪馬台国は、女王・卑弥呼が治めていた国です。その場所が九州だったのか、近畿(畿内)だったのかは今も結論が出ていません。卑弥呼は争乱を収めるために女王となり、中国の「魏」と交流して「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を得ることで、国内での統治力を強めたと考えられています。
邪馬台国があったとされる場所
邪馬台国が日本のどこにあったのかという論争は、今も続く古代日本のミステリーです。主な説は二つあります。
・九州説
魏志倭人伝に書かれている道のりをたどると、九州地方になるという考え方です。佐賀県にある吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)のような、当時のものとしては非常に大きな集落(ムラ)の跡が見つかっており、ここが邪馬台国の中心だったのではないか、と考える人もいます。
・畿内(きない)説
奈良県を中心とした近畿地方にあったとする考え方です。のちに日本の中心となる「大和政権(やまとせいけん)」とつながりがあると考え、奈良県にある巨大な古墳「箸墓(はしはか)古墳」が卑弥呼のお墓ではないか、とする有力な説があります。
どちらの説にも、まだ説明がつかない点が残っています。この「結論が出ていない」こと自体が、歴史の面白さでもありますね。
卑弥呼が邪馬台国の女王になった理由
魏志倭人伝によれば、卑弥呼が女王になる前、倭国では男の王が国を治めていましたが、長い間、争いが続いて国全体が大きく乱れていました。
そこで人々は、争いを収めるために一人の女性を王に立てました。それが卑弥呼です。武力だけでなく、卑弥呼が持つ「鬼道」という占いや祈りの力で、争いに疲れた人々の心を一つにまとめようとしたと考えられます。
邪馬台国と中国(魏)とのつながり
卑弥呼は、当時の東アジアで大きな国であった中国の「魏」と積極的に交流しました。239 年、卑弥呼は魏に使いを送ります。
魏の皇帝はこれを喜び、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」という呼び名を贈りました。これは「魏と親しい倭国の王」という意味です。さらに、金印(きんいん:金で作られたハンコ)や、銅鏡(どうきょう)100枚など、たくさんの貴重な品々を贈りました。
卑弥呼は、大国である魏に「倭国の王」として認めてもらうことで、日本国内での自分の力をより確かなものにしようとしたのです。
卑弥呼の人物像
「魏志倭人伝」の記録から、卑弥呼は占いの力で人々を引きつけつつ、国を治める厳しさも持つ人物だったと推測されます。生涯独身で人前に姿を現すことが少なく、弟を通じて政治を行っていました。そのミステリアスな在り方が、卑弥呼の権威性を高めていたのかもしれません。
卑弥呼はどんな性格だった?
魏志倭人伝の記述から、卑弥呼の性格を想像してみましょう。
占いやまじないで国を治めていたことから、人々の不安な気持ちを受け止め、進むべき道を示すことができる、人々を引きつける特別な力を持った人物だったと推測されます。一方で、弟と協力して政治を行い国のルールを守らせるなど、国のリーダーとしての厳しさや決断力も持っていたと考えられます。
卑弥呼はなぜ姿を現さなかったの?
魏志倭人伝には「卑弥呼が女王になってから、その姿を見た者は少ない」と書かれています。食事や身の回りの世話は限られた女性が担当し、政治的な命令は弟を通じて伝えられました。夫はいなかったとされています。
一説では、卑弥呼の「不思議な力」をより特別なものに見せるための「演出」であったとも考えられます。めったに姿を見せないことで、神様に近い特別な存在として、人々の尊敬を集めていたのかもしれません。
卑弥呼はどんな顔をしていた?
残念ながら、卑弥呼の容貌を示す絵や像は残っていません。当時の弥生人の特徴からの想像として、面長で黒髪の静かな雰囲気をたたえた女性像が描かれることが多いようです。
卑弥呼の晩年とその後
卑弥呼が亡くなると、100人以上が共に埋葬されるほど大きなお墓が作られたと記録されています。卑弥呼の死後、国は一時乱れましたが、彼女の一族である13歳の少女「台与(とよ)」が次の女王となり、再び国はまとまりました。
卑弥呼の最期と「殉葬」
卑弥呼が、何年に何歳で亡くなったのかは今でも詳しくはわかっていません。
魏志倭人伝には彼女が亡くなると、直径100歩(約150メートル)もある大きなお墓が作られたと記録されています。 そして、100人以上の従者たちが、彼女とともに埋葬されたと書かれています。このような風習を「殉葬(じゅんそう)」といい、亡くなった王の権力がどれほど大きかったかを示していると考えられています。
次の女王・台与(とよ)とは?
偉大な女王・卑弥呼が亡くなると、倭国は再び乱れてしまいます。後継者として一度は男の王が立ちましたが、国はまとまりませんでした。
そこで、新たに女王として選ばれたのが、卑弥呼の一族の少女「台与(とよ)」(壱与(いよ)とも書かれます)でした。当時まだ13歳だった台与が女王になると、不思議なことに争いは収まり、国は再び平和を取り戻したとされています。台与もまた、魏(その後の晋)に使いを送ったことが記録されています。
卑弥呼が今も語り継がれるわけ
今回は、邪馬台国の女王・卑弥呼がどんな人だったのかを紹介しました。
卑弥呼は約1800年前の弥生時代に、長く続いた争いを収めた女王で、姿をあまり見せず、まじないや占いといった鬼道の力で人々をまとめ、中国(魏)とも交流して親魏倭王の称号を得ました。
しかし、彼女が治めた邪馬台国がどこにあったのか、その素顔など多くの事が今でもナゾに包まれています。
このナゾの多さこそが、卑弥呼という人物の魅力なのかもしれません。ぜひ図書館で歴史の本を読み、博物館や吉野ヶ里遺跡のような遺跡公園を訪れて、卑弥呼や邪馬台国について、自分なりの答えを探してみてください。
卑弥呼に関するQ&A
Q. 卑弥呼って、何をした人なの?
A. 卑弥呼は、日本の弥生時代(3世紀ごろ)に、長く続いた争いを収めて国をまとめたとされる女王です。占いやまじないといった不思議な力(鬼道)を使い、人々を導きました。また、当時の中国(魏)に使者を送り、「親魏倭王」という称号をもらうなど、外交も行った人物です。
Q. 卑弥呼は実在したの?
A. 卑弥呼は、中国の歴史書「三国志」の中の「魏志倭人伝」という部分に記録されています。そのため、実在した人物である可能性は高いと考えられています。ただし、日本の歴史書(古事記や日本書紀)には「卑弥呼」という名前での明確な記述がないため、ナゾの多い人物とされています。
Q. 邪馬台国は、結局どこにあったの?
A. 卑弥呼が治めた邪馬台国の場所は、今もはっきりとわかっておらず、日本の歴史における大きなナゾの一つです。「魏志倭人伝」の記述をもとに、九州地方だったという説(九州説)と、奈良県を中心とする近畿地方だったという説(畿内説)が有力ですが、どちらも決定的な証拠はなく、議論が続いています。



































