歴史の授業で必ず登場する「足利尊氏(あしかがたかうじ)」を知っていますか。名前は有名ですが「結局、何をした人なの?」と聞かれると、意外と説明が難しい人物かもしれません。 尊氏は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)を倒して「室町幕府(むろまちばくふ)」を開いた初代将軍です。しかしその人生は、味方だった天皇との対立、実の弟との争い、そして国が二つに分かれて戦う「南北朝時代(なんぼくちょうじだい)」の幕開けなど、迷いと波乱(はらん)の連続でした。 この記事では、尊氏がどんな時代を作り、どんな功績(こうせき)を残したのか、そして悩み多きその生涯について、わかりやすく解説します。
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足利尊氏は何をした人?
足利尊氏(あしかがたかうじ)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)と協力して鎌倉幕府(かまくらばくふ)を倒した後、武士(ぶし)による政権(せいけん)「室町幕府(むろまちばくふ)」を開いた初代将軍です。
武士の政治方針(せいじほうしん)である「建武式目(けんむしきもく)」を定めて新しいルールを作る一方で、朝廷(ちょうてい)が二つに分裂(ぶんれつ)する「南北朝時代(なんぼくちょうじだい)」を招いた人物でもあります。混乱(こんらん)の中で守護(しゅご)の権限(けんげん)を強めるなど、新しい時代の仕組みを整えました。
ここでは、尊氏の主な功績(こうせき)と歴史への影響を4つのポイントで紹介します。
鎌倉幕府を倒す「一番の立役者」になった
尊氏はもともと、鎌倉幕府に仕える名門・足利家の武士でした。最初は幕府軍として戦っていましたが、時代の変化を感じ取り、ある大きな決断を下します。
1333年、幕府を倒そうとする後醍醐天皇の呼びかけに応じ、幕府を裏切って味方についたのです。尊氏は京都にある幕府の拠点(きょてん)「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を攻め落としました。
これと同時に、関東では新田義貞(にったよしさだ)が挙兵(きょへい)し、鎌倉幕府は滅亡(めつぼう)しました。尊氏のこの「寝返り」がなければ、歴史は大きく違っていたかもしれません。
「室町幕府」を開き、全国をまとめる仕組みを作った
鎌倉幕府が滅んだ後、後醍醐天皇による「建武(けんむ)の新政(しんせい)」が始まりました。しかし、公家(くげ)中心の政治だったため、武士たちは十分な恩賞(おんしょう:ごほうび)や土地をもらえず、不満を募らせていきます。そんな武士たちの期待は、次第に武家の棟梁(とうりょう:リーダー)である尊氏へと集まっていきました。
やがて尊氏は後醍醐天皇と対立し、京都をめぐる戦いに勝利をおさめました。そして、1338年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命(にんめい)され、室町幕府が本格的にスタートします。
尊氏は全国を統治するために、次のような仕組みを整えました。
・守護(しゅご)の強化:国ごとに軍事や警察を担当するリーダー「守護」の権限を強くした
・地方の役所:目が届きにくい場所を治めるため、関東に「鎌倉府(かまくらふ)」、九州に「九州探題(きゅうしゅうたんだい)」という特別な役所を置いた
こうして、京都に拠点を置きながら、全国に目を光らせる政治体制を作り上げました。
天皇が2人いる「南北朝時代」を生み出した
尊氏が幕府を開くまでの過程で、日本は二つに割れてしまいます。
戦いに敗れた後醍醐天皇は、京都から奈良の吉野(よしの)へ逃れ「自分こそが正しい天皇だ」と主張しました。これが「南朝(なんちょう)」です。一方、尊氏は京都に別の天皇・光明天皇(こうみょうてんのう)を立てました。こちらが「北朝(ほくちょう)」です。
こうして、1336年ごろから約60年間も、南朝と北朝という二つの朝廷が同時に存在する「南北朝時代」が続きました。尊氏は北朝を支えながら、楠木正成(くすのきまさしげ)ら南朝側の武将(ぶしょう)と戦い続けることになります。
建武式目を定め、武家政治の方針を示した
室町幕府を正式に開く前の1336年、尊氏は政治の基本方針を示した「建武式目」という17か条の決まりを発表しました。
これは法律というよりも、「これからの武家政権は、こんなことを大切にします」という宣言のようなものです。
・鎌倉幕府の良いところは引き継ぐ
・治安を回復させる
・えこひいきをせず、公平に裁判を行う
などが記されています。建武の新政で不満を溜め込んでいた武士たちに対し、「今度こそ安心してついてきてほしい」というメッセージを発信したのです。
足利尊氏の生い立ちと波乱の人生
名門武士(めいもんぶし)として生まれた尊氏の人生は、激動(げきどう)の連続でした。
鎌倉幕府(かまくらばくふ)を裏切って後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、そのあと天皇とも敵対して「朝敵(ちょうてき:国の敵)」と呼ばれます。九州へ逃れるほどの敗北をしたかとおもえば、奇跡の大逆転で将軍(しょうぐん)に上り詰め、晩年(ばんねん)には実弟との争いに苦しむなど、悩み多き生涯でした。
将来有望な武士から「逆賊」へ
1305年(嘉元(かげん)3年)、尊氏は源氏(げんじ)の流れをくむ名門・足利家に生まれました。若いころから「将来を背負う有力な武士」として期待されていました。
運命が動き出したのは、30歳前後です。後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を倒し、名前も天皇の名前(尊治:たかはる)から一文字もらって「高氏」から「尊氏」に変えました。
ところが、天皇との良い関係は長く続きません。武士たちの利益を守るために独自に行動した尊氏は、天皇から「朝敵」とみなされ、追われる身となってしまったのです。
九州への逃亡、そして大逆転
天皇軍との戦いに敗れた尊氏は京都を追われ、一度は九州まで逃げ延びました。精神的に追い詰められた尊氏は「もうダメかもしれない」と弱音を吐き、切腹しようとしたという逸話(いつわ)も残っています。
しかし、ここからが尊氏の凄いところです。九州で現地の武士たちを味方につけて勢力を盛り返し、再び京都へ攻め上ります。そして「湊川(みなとがわ)の戦い」で楠木正成(くすのき まさしげ)を破り、ついに将軍(しょうぐん)の座をつかみ取りました。
弟・直義との対立「観応の擾乱」
幕府を開いた後も、平和は訪れませんでした。次に現れた敵は、なんと一番の味方であり、一緒に幕府を作ってきた弟・足利直義(あしかが ただよし)でした。
尊氏は「軍事は自分(兄)、政治は弟」という役割分担をしていましたが、考え方の違いから幕府内で争いが起こります。これを「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)」といいます。
この争いで尊氏は、かつての敵である南朝と一時的に手を組むなど、なりふり構わぬ行動に出ました。最終的に弟の直義は急死し、尊氏が勝利しましたが、その心には深い傷が残ったことでしょう。その後、尊氏は1358年に満52歳でこの世を去りました。
足利尊氏の性格と人物像とは?
尊氏は、戦いで得た恩賞(おんしょう)を部下に惜しみなく与える「気前の良さ」で多くの武士(ぶし)をひきつけました。
戦には強い反面、政治の実務は弟に任せるなど苦手な一面もあったそうです。また、敵対した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の供養(くよう)のために天龍寺(てんりゅうじ)を建立するなど、仏教への信仰心が厚く、敵をも敬う優しさを持った人物でした。
とにかく気前が良い「親分肌」
尊氏の特徴は、とにかく「気前が良い」ことでした。戦いで手に入れた土地や宝物を、自分では持たずに「これはお前たちのおかげだ」と、部下の武士たちに次々とプレゼントしてしまったのです。
「この人についていけば、必ず報われる」そう思わせるカリスマ性が、多くの武士をひきつけました。何度負けても尊氏のもとに人が集まり、再起できたのは、この性格のおかげかもしれません。
戦いは強く、政治はおまかせ
尊氏は、戦場では勇敢(ゆうかん)で、直感的に軍を動かす才能に優れた武将(ぶしょう)でした。一方で、細かい政治の調整や裁判、書類仕事などはあまり得意ではなかったようです。
そのため、政治の多くを弟・直義に任せる「分担体制」をとりました。初めのうちは、この兄弟のチームワークが幕府を支える力になりましたが、次第に方針の違いが表面化し、やがて悲しい兄弟喧嘩へとつながってしまいました。
敵も敬う優しい心
尊氏は、仏教への信仰がとても厚い人物でもありました。
かつて激しく対立した後醍醐天皇が亡くなったときには、その霊を慰めるために、京都に「天龍寺(てんりゅうじ)」という立派なお寺を建てています。その建設費用をまかなうために、元(げん:現在の中国)との貿易を行う「天龍寺船(てんりゅうじぶね)」を派遣したエピソードは有名です。
生前は命をかけて争った相手であっても、死後は手厚く供養(くよう)する。そんな姿からは、尊氏の信仰心と、敵を憎みきれない優しさがうかがえます。
足利尊氏の人生から学べること
足利尊氏は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)を倒し、室町幕府(むろまちばくふ)の基礎(きそ)を作った歴史的リーダーです。
彼の人生は、裏切りや身内との骨肉の争いなど、決していいことばかりではありませんでした。しかし、悩み苦しみ、時には弱音を吐きながらも前に進み続けた尊氏の姿は、「完璧な人間でなくても、周りの人を大切にすれば道は開ける」ということを教えてくれます。
もし機会があれば、京都の天龍寺(てんりゅうじ)や、足利将軍家の菩提寺(ぼだいじ)である等持院(とうじいん)などを訪ねてみてください。お寺の静かな雰囲気の中で、足利尊氏が生きた時代や、その迷いと決断に思いを馳せてみると、歴史がぐっと身近に感じられるはずです。
足利尊氏は何をした人?よくある疑問Q&A
Q.足利尊氏は簡単にいうと何をした人ですか?
A.足利尊氏(あしかがたかうじ)は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)を倒して室町幕府(むろまちばくふ)を開いた初代将軍(しょうぐん)です。最初は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に協力しましたが、後に意見が合わず対立しました。北朝を支え、のちに征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、武士(ぶし)による政治を行いました。また、日本の朝廷が南と北の二つに分かれる南北朝時代のきっかけを作った人物でもあります。
Q.足利尊氏と後醍醐天皇はどんな関係だったのですか?
A.最初は協力して鎌倉幕府を倒した味方同士でしたが、政治の方針をめぐって激しく対立しました。尊氏は天皇に対立した「朝敵」とされましたが、戦いの末に京都から天皇を追い出しました。しかし、後醍醐天皇が亡くなると天龍寺(てんりゅうじ)を建てて、その霊を慰めました。
Q.室町幕府と鎌倉幕府の違いは何ですか?
A.鎌倉幕府は関東の鎌倉にありましたが、室町幕府は京都に置かれた点が大きな違いです。これにより朝廷との距離が近くなりました。また、室町幕府では地方を治める「守護(しゅご)」の権限(けんげん)が強まり、彼らが力をつけて「守護大名(しゅごだいみょう)」へと成長していきました。尊氏が定めた建武式目(けんぶしきもく)が、幕府の基本方針となっています。
Q.足利尊氏はなぜ「逆賊」と呼ばれたのですか?
A.天皇に弓を引いたからです。かつては「天皇に背くこと」は最大の罪とされ、尊氏は後醍醐天皇と戦ったことで、長い間「逆賊(ぎゃくぞく)」という汚名を着せられてきました。しかし近年では、新しい武家政権を作った実績や、武士たちのリーダーとしての資質、悩み苦悩する人間らしい側面が再評価されています。






























