歴史の教科書に必ず登場する「徳川家康(とくがわいえやす)」について、どんなイメージを持っていますか? 「戦国時代という混乱(こんらん)した世の中を終わらせ、江戸幕府(えどばくふ)を開いた人物」として知られていますが、その人生は決して順調ではなく苦労の連続でした。 この記事では、「徳川家康は何した人だろう」という疑問に答えるべく、彼の主な功績(こうせき)や意外な人物像をわかりやすく解説します。数々のピンチを乗り越えた家康の波乱万丈(はらんばんじょう)な人生を、一緒に見ていきましょう。
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徳川家康は何した人?
徳川家康は、江戸幕府(えどばくふ)を開き、約260年も続く大きな争いが少ない時代の基礎(きそ)を築いた人物です。
1600年の関ヶ原の戦いで勝利して主導権を握り、その後の大坂の陣で豊臣家(とよとみけ)を倒して天下統一を成し遂げました。また、現在の東京の発展につながる江戸の街づくりや、全国の街道の整備など、社会の仕組みを整えたことも大きな功績(こうせき)です。ここでは、家康が成し遂げた主な偉業(いぎょう)を4つのポイントで紹介します。
約260年続いた江戸幕府を開いた
家康の大きな功績は、なんといっても1603年に江戸幕府を開いたことです。幕府とは、武士(ぶし)が中心となって行う政治機関のことです。
家康は、朝廷(ちょうてい:天皇を中心とする政治の場)から、武士のトップである「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任命されました。そして、現在の東京である「江戸」に幕府を開きます。これが、約260年間という長きにわたる江戸時代のスタートとなりました。
関ヶ原の戦いで勝利して天下統一へ道を開いた
1598年に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が亡くなると、次のリーダーを誰にするかで有力な武将(ぶしょう)たちの対立が深まりました。家康は、豊臣家を守ろうとする石田三成(いしだ みつなり)を中心とした「西軍」と対立し「関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)」で激突しました。この戦いは、日本の未来を決定づけるものとして「天下分け目の合戦」とも呼ばれています。
結果、家康率いる「東軍」が見事に勝利し、家康は事実上の日本のトップとしての地位を固めることになりました。
大坂の陣で豊臣家を滅ぼした
関ヶ原の戦いで勝利したものの、亡き秀吉の息子・秀頼(ひでより)とその母・淀殿(よどどの)は、依然として大坂城で強い力を持っていました。そこで家康は、豊臣家との決着をつけるために最後の戦いへ挑みます。
それが、1614年の「大坂冬の陣」と1615年の「大坂夏の陣」です。この二度の戦いで家康は豊臣家を滅ぼし、名実ともに天下統一を完成させました。
これによって長く続いた戦乱(せんらん)の世は終わりを告げ、日本は徳川家を中心とした新しい秩序の時代へと進んでいったのです。
江戸の街づくりと全国の整備を進めた
当時の江戸は、海が近く湿地(しっち:じめじめした土地)が多い場所でした。しかし家康は、大規模な工事を行って土地を整え、江戸城を中心とした立派な城下町(じょうかまち)を作り上げました。
さらに、江戸と京都などを結ぶ「五街道(ごかいどう)」という主要道路を整備。人や物が安全かつスムーズに移動できるような交通網を作り、経済発展の土台を築きました。
徳川家康の生い立ちと苦労の人生
家康の生涯(しょうがい)を一言で表すなら、「忍耐(にんたい)の人生」と言えるかもしれません。
幼い頃から人質として過ごし、独立後も戦での大敗や本能寺(ほんのうじ)の変などの危機(きき)に何度も直面しました。信長や秀吉という強大なライバルの時代を耐え抜き、着実に力を蓄え、ようやく天下人となったのです。そんな彼の歩みを振り返ってみましょう。
生まれた場所と名前の移り変わり
徳川家康は1542年(天文11年)、三河国(みかわのくに)・岡崎城(現在の愛知県岡崎市)で生まれました。生まれた時の名前は「松平竹千代(まつだいらたけちよ)」といいます。
成長するにつれて、「竹千代」「松平元信(まつだいらもとのぶ)」「松平元康(まつだいらもとやす)」「徳川家康(とくがわいえやす)」と、何度か名前を変えています。これは、大名同士の関係や立場の変化によるもので、当時としては珍しいことではありませんでした。
6歳から始まった人質生活の苦労
1547年(天文16年)、まだ6歳だった竹千代(家康)は、父・松平広忠(まつだいらひろただ)と今川義元(いまがわよしもと)の約束により、今川家へ人質として送られることになります。
ところがその道中、家臣(かしん)の裏切りに遭い、敵対していた織田信秀(おだのぶひで:信長の父)のもとへ引き渡されてしまうのです。その後、人質交換によってようやく今川家に移されましたが、結局、駿府(すんぷ:現在の静岡県静岡市)で約10年間もの人質生活を送ることになりました。
父を早くに亡くし、母とも離れ離れになるという過酷(かこく)な少年時代でした。しかし、この時期に学問や武芸に励み、家康の武器である「忍耐強さ」が養われたといわれています。
19歳で独立、信長・秀吉の時代を約40年間耐え続けた
1560年、「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元が織田信長に討たれると、家康(当時は松平元康)は今川家から独立し、故郷の岡崎城に戻ることができました。その後、1562年に信長と「清洲同盟(きよすどうめい)」を結び、共に戦う道を選びます。しかし、その後も苦難は続きます。
・「三河一向一揆(みかわいっこういっき)」で家臣が反乱を起こす
・1572年、「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で武田信玄(たけだしんげん)に大敗する
1582年、「本能寺(ほんのうじ)の変」で信長が倒れた際には「伊賀(いが)越え」と呼ばれる危険な山越えをして命からがら領地(りょうち)へ戻りました。その後、天下人となった豊臣秀吉とも一時対立し、「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」で戦いますが、最終的には秀吉に従う道を選びます。
1590年には、秀吉の命令で先祖代々の土地を離れ、関東(江戸)への国替えを命じられました。これは家康を政治の中心から遠ざける狙いがあったともいわれますが、家康は文句を言わず、新天地で江戸の町づくりに力を注ぎました。
58歳でついに天下人へ!73歳まで現役で活躍
1598年に秀吉が亡くなると、家康は「五大老(ごたいろう)」の一人として政権を支える立場にありながら、徐々に力を強めていきます。
・1600年:関ヶ原の戦いで勝利
・1603年:征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり江戸幕府を開く
・1605年:将軍職(しょうぐんしょく)を息子・秀忠(ひでただ)に譲る
将軍職を譲った後も「大御所(おおごしょ)」として実権を握り続け、1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、日本の統一を完成させました。
1616年、家康は駿府城(すんぷじょう)にて73歳(数え年で75歳)でその生涯を閉じます。死因は胃の病気だったと考えられており、「鯛の天ぷらによる食中毒」という有名な説は、現在では否定されつつあります。
死後、家康は遺言(ゆいごん)通り「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」に葬られ、のちに「日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)」にも祀られました。日光東照宮は、現在も多くの観光客が訪れる世界遺産として親しまれています。
徳川家康の性格と人物像とは?
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という俳句で知られるように、徳川家康は非常に忍耐(にんたい)強く、計画的な性格だったといわれています。
失敗を教訓としてあえて絵に残したり、体に気を遣ったりといった自己管理能力こそが、天下統一を成し遂げた秘訣(ひけつ)だったのかもしれません。
我慢強くて計画的な性格だった
家康の性格を象徴するのが「がまん強さ」です。幼少期の人質生活で培われた忍耐力で、すぐに結果を求めず、勝てるチャンスが来るまでじっと待つことができました。
その性格がよくわかるエピソードに「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」での敗戦があります。武田信玄(たけだ しんげん)に大敗し、命からがら逃げ帰った家康は、その情けない自分の姿(しかめ面)をあえて絵師に描かせました。これが有名な「顰像(しかみぞう)」です。
家康はこの絵を常に身近に置き「二度とこんな失敗はしない」と誓ったそうです。失敗をただ悔やむだけでなく、次の成功への糧にする。そんな計画的で粘り強い一面がうかがえます。
健康に気を配り、73歳まで長生きした
戦国時代は平均寿命が30〜40歳ほどと推定(すいてい)され、特に庶民(しょみん)にとっては50歳を超えれば長生きとされる時代でした。その中で73歳まで生きた徳川家康は、戦国武将(せんごくぶしょう)の中でも長寿(ちょうじゅ)の部類に入ります。
彼は健康管理に人一倍気を配っていたことでも知られています。趣味の「鷹狩(たかがり)」で野山を駆け回って足腰を鍛え、食事は白米ではなく麦ごはんや野菜を中心とした質素なものを好んだと伝えられています。
さらに、薬草や漢方(かんぽう)の知識も豊富で、自分の体調に合わせて薬を調合することもあったといわれます。最期まで現役で活躍できたのは、こうした日々の健康管理があったからこそでしょう。
徳川家康の人生から学べること
徳川家康は、戦国の混乱(こんらん)した世の中を終わらせ、江戸幕府(えどばくふ)という安定した時代の土台を作った、日本史における重要人物の一人です。
6歳からの人質生活や信長や秀吉の下で過ごしたがまんの時期。そして天下分け目の関ヶ原の戦いなど、その道のりは決して平坦(へいたん)ではありませんでした。
家康の忍耐(にんたい)強く、約束を上手に利用する手腕から「タヌキ親父」と呼ばれることもあります。しかし、彼の生き方には、現代の私たちにも通じる大切なヒントがたくさん詰まっています。
・「大失敗をしても、それを教訓(きょうくん)として忘れない強さ」
・「健康を大切にし、学び続ける姿勢」
・「チャンスが来るまでじっと耐え、着実に準備をする忍耐力」
もし機会があれば、家康ゆかりの岡崎城(おかざきじょう)や久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)などを訪れてみてください。実際の場所を訪れることで、「徳川家康は何をした人なのか」を教科書よりもずっと身近に感じられるはずです。
徳川家康は何をした人?よくある疑問Q&A
Q.徳川家康って簡単に言うと何した人?
A.徳川家康は、長い戦乱(せんらん)の世を終わらせて「江戸幕府(えどばくふ)」を開き、約260年間続く江戸時代の土台を作った人物です。関ヶ原の戦いで勝利して権力を握り、大坂の陣で豊臣家を滅ぼして天下統一を果たしました。また、江戸(現在の東京)の都市開発や街道の整備を行い、日本の政治や社会の仕組みを整えたことでも知られています。
Q.家康はどんな性格だったの?
A. 非常にがまん強く、慎重(しんちょう)な性格でした。幼少期の人質生活や数々の苦労を通じて、チャンスが来るまでじっと耐える忍耐(にんたい)力を身につけたといわれています。また、失敗を反省して次に活かす計画性や、食事や運動に気をつけて健康管理を徹底する几帳面(きちょうめん)さも持ち合わせていました。
Q.徳川家康はどこの出身?
A.現在の愛知県東部にあたる、三河国(みかわのくに)の岡崎城で生まれました。当時の三河は、隣接する強い戦国大名である織田氏と今川氏に挟まれた弱い立場にありました。そのため、家康は幼い頃から両家の人質として過ごすなど、故郷(こきょう)を離れて苦労する時期が長く続きました。
Q.徳川家康は「関ヶ原の戦い」で何をしたの?
A.1600年に起きた「関ヶ原の戦い」で、家康は東軍を率いて、石田三成(いしだ みつなり)らを中心とする西軍と戦い、勝利しました。この戦いは「天下分け目の戦い」と呼ばれ、勝利した家康は日本全国の支配権を実質的に手に入れました。この勝利が、後の江戸幕府開設への決定的なステップとなりました。
Q.日光東照宮には何があるの?
A.栃木県にある日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、徳川家康を神として祀っている神社です。家康の遺言(ゆいごん)により建てられました。豪華絢爛(ごうかけんらん)な建物や「見ざる言わざる聞かざる」の彫刻(ちょうこく)などが有名で、現在は世界遺産にも登録されています。家康の墓もあり、今も多くの人が訪れています。









































