天下統一をした人は誰?三大武将が天下統一を目指した理由
公開日: 2023/05/30
「天下統一」というと、日本史では応仁の乱以降の戦乱の世が終息するまでの動きを指す言葉です。天下統一までにはさまざまな事件や人物の活躍があり、映画やドラマ、ゲームなどの題材になることもあります。戦国時代に活躍した武将といえば、代表的なのが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。この3人の人物像を振り返りながら、天下統一した人や歩みについて解説します。
天下統一ってどういう意味?
天下統一の「天下」とは、一国の政治や国全体を指す言葉です。天下統一とは、内乱が終わって一つの大きな国家ができることを意味します。このため、天下統一は世界中どこでも起きうる現象です。日本では、応仁の乱以降激しくなった戦国時代が終息して、国として一つにまとまることを天下統一といいます。
・日本全国を1つにまとめて自分がリーダーになること
戦国時代、有力な武将が目指したのは「天下人」になること。天下人とは、ほかの大名を従えて日本全国を支配するリーダーです。戦国大名のなかで、とくに天下統一にこだわっていたのは織田信長だといわれています。
・天下統一すると何か良いことがあるの?
天下統一をするメリットとしてまず挙げられるのは、戦乱がなくなり平和がもたらされることです。戦国大名たちは自分たちの領地を守るためにほかの大名と対立して戦をします。しかし、戦にはお金も人も必要です。しかも戦いが続くと、せっかく作った家や農地なども壊れてしまいます。また、強いリーダーが天下統一をすると、中央集権的な国になります。政治的に安定すれば、戦に使っていたお金を公共事業などに回すことができるでしょう。上手にお金を使えば、農地を開拓したり河川を整備したりすることができ、国全体が豊かになります。
・日本だけじゃない!海外で起こった天下統一をめぐる争い!
天下統一というと日本の戦国時代を思い描くことが多いのですが、実は世界中で天下統一をめぐる争いは起きています。日本の戦国時代よりずっと前、古代中国の春秋時代末期に国内が分裂状態になったとき、新しい主権者による天下統一が目標として掲げられました。天下という言葉は春秋時代が起源といわれています。
戦国時代を代表する三大武将!天下統一をしたのは誰?
戦国時代を代表する武将として有名なのは、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人です。天下統一を目指した3人の武将の生涯をご紹介します。
・天下統一まであと一歩届かなかった織田信長
織田信長は、1534年に尾張南部を支配していた織田信秀の子として誕生しました。奇抜なファッションをしたり人の意表をつくような行動をとったりしたことから、「おおうつけ」と呼ばれていた記録があります。うつけとは、「間抜け」や「おろか」という意味の言葉です。1551年に父から家督を継いだ信長は、1560年劣勢にも関わらず桶狭間の戦いで今川義元を倒します。その後、美濃の斎藤氏を追放し、稲葉山城を岐阜城と改めました。権力を強める信長に助けを求めたのが、室町幕府の最後の将軍となる足利義昭です。義昭は信長を頼って京都へ行き、天皇から第15代将軍として任命されました。信長の勢いは止まらず、1570年には近江の浅井氏・越前の朝倉氏を姉川の戦いで破ります。1571年には浅井・朝倉と組んでいた比叡山延暦寺に兵を進め、焼き討ちにします。そして、1573年には以前より対立を深めていた義昭を追放。信長によって、室町幕府は滅亡しました。1575年、長篠合戦で、当時無敵だといわれていた武田氏の騎馬隊を信長の鉄砲隊が撃破します。1576年には琵琶湖の近くに安土城を築きました。室町幕府滅亡から江戸時代に入るまでを「安土桃山時代」と呼びますが、その象徴ともいわれる7階建ての豪華なお城です。安土城の城下町では楽市令を出して自由な商売を認め、経済を発展させました。その後も日本各地を平定していきますが、家臣であった明智光秀が謀反(むほん)を起こし、本能寺に滞在していた信長を討ちます。この本能寺の変によって、1582年に信長は天下統一を成し遂げる前に生涯をとじます。
・天下統一を果たしたのは豊臣秀吉だけ!
3人の武将のなかで天下統一を果たしたのは、豊臣秀吉です。ほかの2人と違い、農民の子どもとして尾張で生まれました。行商などさまざまな仕事をしていた秀吉は、18歳のとき、小者として織田信長に仕え始めます。小者とは、使い走りのこと。信長に働きぶりを認められ、雑務以上の仕事を任せられるようになります。信長の家臣として大出世した要因は、知恵を使ってさまざまな手柄を立てたことにあります。たとえば、美濃の稲葉城を攻略する際に足がかりになる城を、秀吉は一夜にして築きました。誰もが無理だと思っていたことを成し遂げるので、信長に功績が認められて出世していったのです。1582年に本能寺の変で信長が自害したことを知ると、秀吉は山崎の戦いで光秀を討ちます。また、信長の有力な家臣だった柴田勝家を倒し、信長の後継者筆頭となりました。その後、秀吉は信長の遺志を継いで、四国や九州を平定していきます。1590年には小田原の北条氏を破り、ついに天下統一を果たすのです。天下人になった秀吉は、国を安定させるために刀狩や太閤検地を行いました。刀狩によって武士以外が武器を持つことはなくなります。また、太閤検地によって、土地の大きさや持ち主がはっきりし、現在の税金にあたる年貢を徴収しやすくなりました。安定した世の中を築いた秀吉ですが、晩年は中国・明の征服を目指し朝鮮に出兵します。多くの犠牲を出した2度の朝鮮出兵の途中、秀吉は病気になり1598年に亡くなりました。
・天下統一後の日本をまとめた!江戸時代をスタートさせた徳川家康
徳川家康は、265年間続いた江戸幕府の初代将軍として有名です。1542年に三河を支配していた大名・松平弘忠の子として誕生した家康は、不遇の幼少期を送ります。6歳から18歳までは今川家や織田家の人質として過ごします。1560年に桶狭間の戦いで主君だった今川義元が討たれたことにより、今川氏から独立。西三河の領地を支配したり信長と同盟を組んだりしました。本能寺の変で信長が討たれたあと頭角を現した秀吉と、小牧・長久手の戦いでぶつかります。戦いは決着がつかず和睦し、以降有力大名として天下統一をした秀吉を支えました。秀吉の死後、後継を巡って1600年に関ヶ原の戦いが起きます。全国の多くの大名が、家康率いる東軍か石田三成率いる西軍に分かれて戦いました。この戦いで東軍が勝利し、家康は全国を支配することになります。その後、1603年には征夷大将軍に任命され、江戸幕府を成立させました。
信長が目指し、秀吉が実現した天下統一!統一政権を安定運営したのは家康!
天下統一を目指しながら、目前で倒れた織田信長。信長の遺志を継いで天下統一を成し遂げたものの、長期政権を築けなかった豊臣秀吉。天下統一をより盤石なものにして江戸幕府を築いた徳川家康。3人の戦国武将の性格の違いや生涯を知ると、戦国時代を題材にしたドラマやゲームをより楽しめるでしょう。本やマンガもたくさんあるので、ぜひ一度読んでみてくださいね。