戦国時代に天下統一をなしとげた豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)には、彼がだれよりも信頼した弟がいました。その人こそ「豊臣秀長(とよとみ ひでなが)」です。 秀長は、派手な戦いで目立つタイプではありませんでしたが、いつも兄である秀吉のそばでサポートを続けた人物でした。冷静で人の話をよく聞き、だれからも好かれた秀長は、多くの武将から尊敬されていました。この記事では、「もし秀長がいなかったら、秀吉は天下を取れなかった」とまでいわれる秀長の生涯や知られざる功績を紹介します。
この記事をいいねと思ったらクリック!
豊臣秀長ってどんな人?
豊臣秀長は、豊臣秀吉の弟として尾張国に生まれました。幼い頃から兄を支え、秀吉が織田信長に仕えると自身も家臣となります。秀吉からは大きな信頼を寄せられ、重要なサポート役を担いました。性格は兄の秀吉とは対照的に冷静で穏やかであり、感情的になりがちな兄をいさめることができる存在でした。
秀長の生い立ち
豊臣秀長は、1540 年に尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)で生まれたとされています。幼いころの名前は「小一郎(こいちろう)」でした。兄の秀吉(当時は「藤吉郎(とうきちろう)」という名前)とともに、身分の低い家に生まれました。
やがて秀吉が織田信長(おだ のぶなが)の家臣になると、秀長も信長に仕えます。秀吉が戦で活躍し、どんどん出世していく影には、いつも秀長のサポートがありました。秀長は、戦いの準備や兄が留守の間の政治(国の仕事)などを担当し、兄が安心して戦いに集中できる環境を整えたのです。
兄・豊臣秀吉との関係
秀長の人生は、まさに兄・秀吉を支え続けるものでした。秀吉がまだ「羽柴秀吉(はしば ひでよし)」と名乗っていた頃から、側近(そっきん:すぐそばで仕える信頼できる家来)として兄を助けます。
秀吉も弟の能力を高く評価し、重要な戦いでは大軍の指揮を任せたり、大切な土地の政治を任せたりしました。秀吉にとって秀長は、自分の「背中を預けられる」特別な存在でした。
秀長と秀吉の性格の違い
兄の秀吉は、とても明るく行動的ですがカッとなりやすく、時には物事を強引に進めようとするところがありました。一方、弟の秀長はとても冷静で穏やかな性格で、ほとんど怒ることがなかったそうです。
秀吉が感情的になって間違った判断をしそうなとき、秀長だけが「兄上、少し落ち着いてください」と優しく兄を止めることができた、といわれています。二人はお互いに足りない部分を補い合う、良きパートナーでした。秀長は、その人柄と能力から「戦国時代の理想のナンバー2」と呼ばれることもあります。
豊臣秀長の活躍と功績
豊臣秀長の功績は多岐にわたります。織田信長時代には補給役のような裏方で兄を支え、天下統一が近づくと大和郡山城主として合計100万石を超える領地を優れた政治で統治しました。また、その穏やかな人柄から交渉役としても手腕を発揮し、特に徳川家康との和睦交渉で重要な役割を果たしました。
織田信長の家臣時代
若いころの秀長は、兄とともに織田信長に仕えました。派手に戦うことよりも、戦いの準備や、兵士たちの食料・武器を管理する補給(ほきゅう)といった、裏方の仕事に才能を発揮しました。
戦は、食料や武器がなくなれば負けてしまいます。兄・秀吉が「中国攻め」という大きな戦いを指揮した際も、秀長が後方で食料(兵糧:ひょうろう)を集めて送り続けたからこそ、秀吉は勝ち続けることができたのです。
大和郡山城の城主としての統治
1585 年、秀吉が天下統一に近づくと、秀長は大和郡山城(やまとこおりやまじょう)」(現在の奈良県)の城主となり、立派な城と城下町を作りました。
秀長が任された領地(大和・紀伊・和泉など)は、合計約100~110 万石(ごく)にもなりました。「石(こく)」とは、お米の取れ高を示す単位です。当時はこれが力の大きさや給料を表していました。110万石というのは、徳川家康(とくがわ いえやす)や毛利輝元(もうり てるもと)といったクラスの武将たちに次ぐ広さの領地です。
秀長は「大和大納言(やまとだいなごん)」とも呼ばれ、領地では税金(年貢)を安くしたり、困っている人々を助けたり、とても優れた政治を行いました。また、和歌山県の「和歌山城」を建て始めたのも秀長です。
和睦の名手としての役割
「和睦(わぼく)」とは、戦いをやめて話し合いで平和に解決することです。秀長は、強引な兄・秀吉と、敵対する武将たちの間に入って、うまく話し合いをまとめる調整役としても大活躍しました。
特に、秀吉が苦戦した徳川家康との戦い(小牧・長久手の戦い)の後、家康に「秀吉の家来になってほしい」と説得する難しい交渉でも、秀長が重要な役割を果たしたとされています。秀長の穏やかな人柄がなければ、交渉はまとまらなかったかもしれません。
豊臣秀長の最期とその後
兄・秀吉の天下統一を見届けた豊臣秀長ですが、1591年に数え年で52歳の時に亡くなります。秀吉よりも早い最期でした。皆から信頼されていた穏やかな秀長の死は、家臣たちの対立を招く一因になったとも考えられています。
秀長はどんな病気で亡くなったの?
秀長は1591 年に、兄の秀吉より先に病気で亡くなりました。病名ははっきりわかっていませんが、若い頃から体が弱かったと伝わっています。
秀長が亡くなった後の豊臣家
穏やかで皆から信頼されていた秀長がいなくなったことで、豊臣家の家臣たちの間には、少しずつ対立が生まれるようになります。
秀吉の後継者候補であった、甥(おい:秀吉の姉の子)の「豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)」も、秀長の死後に味方がいなくなり、やがて悲劇的な最期をとげます。もしも秀長がもっと長く生きていれば、秀吉の暴走を止め、家臣たちをまとめ、豊臣家はもっと長く続いたかもしれないと考える歴史家も少なくありません。
豊臣秀長に関する豆知識
豊臣秀長は、家を継ぐ男子には恵まれず、娘婿の豊臣秀保(とよとみ ひでやす)が後を継ぎましたが、秀保も若くして亡くなりました 。また、秀長の死後まもなく秀吉が利休に切腹を命じていることから、秀長が二人の間の調整役を担っていた可能性も考えられます。ゆかりの地としては、城主を務めた大和郡山城(奈良県)や、築城を開始した和歌山城が有名です 。
豊臣秀長に妻や子どもはいたの?
秀長には「慈雲院(じうんいん)(別名:「智雲院」ちうんいん)」と呼ばれる妻がいました。二人には娘がいましたが、残念ながら男の子(家を継ぐ男子)はいませんでした。そのため、秀長の家は、娘の夫である豊臣秀保(とよとみ ひでやす)が継ぎましたが、秀保も若くして亡くなってしまいました。
茶人「千利休」と豊臣秀長の関係とは?
秀吉の政治は、弟の秀長と、茶の湯(茶道)の達人「千利休(せんの りきゅう)」という、二人の重要な人物が関わっていました。秀長が政治や軍事(公の事)を、利休が文化や秀吉の相談役(内々の事)を、うまく分担していたともいわれます。
ところが秀長が病気で亡くなると、このバランスが崩れてしまいます。秀長の死後、秀吉は利休に切腹(せっぷく)を命じたのです。
この二つの出来事の時期がとても近かったため、当時の人々の間では「もし秀長公が生きておられたら、利休殿の悲劇は防げたかもしれない」と惜しむ声があったともいわれています。
豊臣秀長ゆかりの場所とは?
秀長が活躍した場所は、今も訪れることができます。
・大和郡山城(奈良県大和郡山市)
秀長が城主となり、立派な城と城下町を整備した場所です。現在は、桜の名所として有名な公園になっています。
・和歌山城(和歌山県和歌山市)
秀吉の命令を受けて、秀長が建設をスタートさせた城です。
・大納言塚(だいなごんづか)(奈良県大和郡山市)
秀長の墓がある場所です。「大納言」とは、秀長がなった高い位(役職のランク)の名前です。今も秀長を慕う人々が訪れる場所となっています。
「支える力」で歴史を動かした豊臣秀長
この記事では、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長について紹介しました。秀長は、冷静な判断力と穏やかな人柄で、兄の天下統一を支えた「理想のナンバー2」でした。
彼が兄の暴走を止めて家臣たちの心をまとめ、政治サポートしたからこそ、豊臣政権は安定したのかもしれません。歴史の教科書では秀吉が目立ちますが、秀長のような「人を支える力」も、同じくらい大切な能力だということがわかります。秀長の功績に興味を持った人は、ぜひ大和郡山城や和歌山城などゆかりの地を訪ねてみてください。
豊臣秀長に関するQ&A
Q.豊臣秀長って、どんな人だったの?
A.豊臣秀長は、豊臣秀吉の弟で、兄の天下統一を支えた人物です。秀吉とは対照的に冷静な穏やかな性格で、ほとんど怒ることがなかったと伝わっています。感情的になりがちな秀吉を優しくいさめることができる存在であり、その人柄と能力から「戦国時代の理想のナンバー2」とも呼ばれています。
Q.秀長はどんな活躍をしたの?
A.豊臣秀長の活躍は、戦場での武功よりも、政治や裏方でのサポートが中心です。兄・秀吉の戦いでは食料や武器を管理する補給役を担当し、勝利に貢献しました。また、大和郡山城の城主としては合計100万石を超える領地を優れた政治で治め、徳川家康などとの難しい和睦交渉(話し合い)もまとめるなど、多方面で活躍しました。
Q.もし豊臣秀長がいなかったらどうなっていた?
A.「もし豊臣秀長がいなかったら、秀吉は天下を取れなかった」とまでいわれています。穏やかな秀長は、秀吉の暴走を止め、家臣たちをまとめる重要な役割を担っていました。秀長の死後、豊臣家内の対立が深まったことからも、秀長が豊臣政権の安定にいかに重要だったかが分かります。



































