大久保利通(おおくぼ としみち)は、明治維新(めいじいしん)という大きな変化の時代に、日本が近代国家(きんだいこっか)として歩み出すための土台を作った人物です。
彼は明治政府の中心人物として、それまで藩(はん)ごとに分かれていた日本の仕組みを一つにまとめ、新しい国づくりを進めました。かつて協力して江戸幕府を倒した西郷隆盛(さいごう たかもり)とは、国の進むべき道をめぐって対立し、やがて政治の世界では敵味方に分かれることになります。
この記事では、大久保利通の功績(こうせき)や、西郷隆盛との関係の変化、そして日本の未来のために彼が下した決断について、わかりやすく解説します。
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このトピックスのもくじ
大久保利通は何した人?国の仕組みを作った主要な功績
大久保利通(おおくぼ としみち)は明治政府のリーダーとして、廃藩置県(はいはんちけん)や地租改正(ちそかいせい)、殖産興業(しょくさんこうぎょう)などの大きな改革を進めた人物です。
藩をなくして国のしくみをまとめ、税金の集め方を整え、産業を育て、さらに警察などの制度づくりにも関わりました。こうした改革が、今の日本につながる「国のしくみ」の土台になったといえます。
【廃藩置県】「藩」をなくして国を一つにまとめた
大久保利通が進めた大きな改革の一つが「廃藩置県(はいはんちけん)」です。
これは、江戸時代から続いていた「藩(はん)」をなくし、新しく「県」を置いて、明治政府が全国をまとめて治める仕組みに変えたものです。
それまでは地域ごとに大名が別々のルールで動かしていたので、国としてまとまりにくい面がありました。
そこで全国のルールを統一したことで、日本は一つの国として動きやすくなりました。これは、それまでバラバラだった日本の形を根本から作り変える、非常に大きな改革だったのです。
【地租改正】税金を「お米からお金」に変えた
次に彼が進めたのが、税金の集め方を新しくする「地租改正(ちそかいせい)」です。
それまでは収穫した「お米」で税を納める形が中心でしたが、これだと豊作(ほうさく)や不作(ふさく)によって国の収入が安定しません。そこで、土地の価値(地価)を基準にして、お金で税を納める仕組みへと整えていきました。
この政策のねらいは、国の収入を安定させて、鉄道を作ったり工場を建てたりするための資金を確保することでした。ただし、農民にとっては負担が重くなる面もあり、各地で反対の動きも起こりました。
【殖産興業】鉄道や工場を作り、国を豊かにした
大久保利通は、日本を欧米諸国(おうべいしょこく)に負けない国にするため、国が中心になって産業を育てる「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」に力を入れました。
具体的には、国が経営する「官営工場(かんえいこうじょう)」を作ったり、交通の要(かなめ)となる鉄道などを整えたりしました。こうした産業の育成が、のちの日本の発展につながっていきます。
【内務省の設立】警察や道路など、国の運営をスムーズにした
大久保利通は「内務省(ないむしょう)」という役所のしくみを作り、そのトップ(内務卿:ないむきょう)にもなりました。
内務省では、治安を守るための警察制度、道路などの整備、さらにいろいろな国内の仕事がまとめて進められました。私たちが安全に暮らせるしくみが「個人の力」だけでなく「国の制度」として整っていったのは、こうした動きがあったからだといえます。
西郷隆盛との関係は?倒幕から西南戦争までの歩み
薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)の仲間だった大久保利通(おおくぼ としみち)と西郷隆盛(さいごう たかもり)は、協力して江戸幕府を倒し、新しい時代を作った中心人物です。さらに長州の木戸孝允(きど たかよし)を合わせた三人は「維新の三傑(いしんのさんけつ)」と呼ばれます。
しかし明治維新のあと、「国をどう進めるか」で意見が分かれ、やがて対立していきます。
倒幕を支えた「表の西郷、裏の大久保」
幕末の混乱の中で、二人はそれぞれの得意な役割で力を発揮しました。
情熱的で人望の厚い西郷が前に立って人々をまとめる場面が多い一方で、大久保は交渉や調整など、制度づくりや政治の動きを進める仕事を担うことが多かったとされます。
タイプはちがっていても、目指す方向が同じだったからこそ、協力して大きな変化を起こせたのです。
海外視察で強まった「国内優先」の思い
明治政府ができた後、大久保は「岩倉使節団(いわくらしせつだん)」の一員として、アメリカやヨーロッパなどを視察(しさつ)しました。期間は1871年末から1873年までで、約2年近い長い旅でした。
そこで西洋の国々の進んだ仕組みを目の当たりにした大久保は、外国へ向かっていく前に、まず日本の国内の制度や産業を整えることが大事だと、いっそう強く考えるようになったといわれています。
西郷との対立から西南戦争へ
日本に戻った大久保利通は、「これから国をどう進めていくか」で西郷隆盛と対立するようになります。
西郷は武士たちの気持ちや役割も重視し、別の考えを強く主張しました。いっぽう大久保は、「まずは国内のしくみを固めることが先だ」と考え、そこがかみ合わなくなっていきました。
その後、政府に不満を持つ士族(しぞく:元武士)たちの動きが次第に広がり、ついに西郷を中心とする西南戦争(せいなんせんそう)へつながっていきます。大久保は政府の中心として、国を守る立場から対応せざるを得ませんでした。
そして西郷が亡くなった翌年の1878年、大久保自身も暗殺され、47歳(数え年49歳)で亡くなりました。
冷徹なだけじゃない?大久保利通の人物像
大久保利通(おおくぼ としみち)は、写真の厳しい表情や、改革を強く進めたイメージから「冷徹(れいてつ:冷たい性格)」と思われることもあります。しかし実際には、まじめで責任感が強く、「日本を良くしたい」という思いで動いた人物だと説明されることが多いです。
「日本の未来」のために嫌われ役になった
改革には、どうしても「得をする人」と「損をする人」が出てきます。
大久保は「欧米に負けない日本を作る」という目的のために、古い仕組みや特権を変える決断をしました。
冷たく見えるかもしれませんが、それは「国の将来を考えて、あえてきびしい決断をした」という見方もできます。改革を進める人には、反対される覚悟も必要だったのです。
死後に残された「国のための借金」
大久保が亡くなったあと、借金が残っていた、という話が伝えられています。
これについては「自分の利益にするためではなく、国の仕事にお金を使いすぎてしまった」と説明されています。
※ここは資料によって説明の仕方がいろいろあるので、授業や調べ学習では「どんな資料にそう書かれているか」も一緒に確かめるのがおすすめです。
大久保利通の人生から学べること
ここまで、大久保利通(おおくぼ としみち)が「何した人か」という功績(こうせき)や、西郷隆盛(さいごう たかもり)との対立の背景を見てきました。
大久保は、廃藩置県(はいはんちけん)や地租改正(ちそかいせい)、殖産興業(しょくさんこうぎょう)などを通して、今の日本につながる「国の土台」を整えた、実務(じつむ)に強いリーダーでした。
西郷と同じように日本の未来を願いながらも、「何を先にするべきか」という優先順位がちがったことで、対立せざるを得なかった面があったのです。
歴史から学べるのは、社会には「人の心を動かすリーダー」と「仕組みを整えるリーダー」の両方が必要だということです。
理想を掲げるだけでなく、それを形にする計画や制度があってこそ、国や組織は前へ進めます。歴史を知ると、今の社会の成り立ちが少し身近に感じられるはずです。
大久保利通についてのQ&A
Q.大久保利通は一言で言うと何をした人ですか?
A.大久保利通(おおくぼ としみち)は、明治政府の中心人物として、近代的な日本の国づくりの土台を整えた人です。廃藩置県(はいはんちけん)で国のしくみをまとめ、地租改正(ちそかいせい)で税の制度を整え、殖産興業(しょくさんこうぎょう)で産業を育てるなど、今の日本につながる改革を進めました。
Q.大久保利通と西郷隆盛の関係は良かったのですか?
A.二人は同じ薩摩藩出身で、幕末には協力して江戸幕府を倒し、新政府づくりを進めました。しかし明治維新のあと、「国をどう進めるか」で意見が分かれ、対立していきます。最後は西南戦争の時代に、政治の立場として敵味方に分かれる形になってしまいました。
Q.「維新の三傑(いしんのさんけつ)」とは誰のことですか?
A.明治維新の中心人物とされる、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(きど たかよし:桂小五郎としても知られる)の3人のことです。
それぞれ得意な役割がちがい、力を合わせて新しい時代の日本を作っていきました。









































