森鴎外(もり おうがい)は、「舞姫(まいひめ)」や「高瀬舟(たかせぶね)」などの作品で知られる明治・大正時代の文豪(ぶんごう)です。名前は聞いたことがあっても、軍医としても活躍したことまでは知らない人もいるかもしれません。
この記事では、森鴎外がどんな人なのか、生い立ちや「二足のわらじ」での活躍、有名な作品をわかりやすく紹介します。
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このトピックスのもくじ
森鴎外はどんな人?
森鴎外(もり おうがい)は、医学と文学の2つの道を歩いた明治・大正時代の文豪(ぶんごう)です。本名は森 林太郎(もり りんたろう)といい、文学の世界では「森鴎外」という筆名(ひつめい)で作品を発表しました。
鴎外は、夏目漱石(なつめ そうせき)と並んで語られることも多い小説家です。「舞姫(まいひめ)」「高瀬舟(たかせぶね)」「山椒大夫(さんしょうだゆう)」など、今も読みつがれる作品を残しました。
一方で、鴎外は軍医としても長く働きました。軍医とは、軍隊で兵士のけがや病気を診たり、病気を防ぐための衛生(えいせい)を考えたりする医者のことです。鴎外はのちに、陸軍軍医総監(りくぐんぐんいそうかん)・陸軍省医務局長(りくぐんしょういむきょくちょう)という高い役職にも就きました。
さらに、ドイツ留学の経験を生かし、ヨーロッパの文学を翻訳(ほんやく)などで日本に紹介しました。昼は軍医として責任ある仕事をし、夜は時間を見つけて小説や翻訳に取り組む。森鴎外は、学び続ける力と努力で、2つの分野に名前を残した人物です。まずは、どのような子ども時代を過ごしたのか見ていきましょう。
森鴎外の生い立ち
森鴎外(もり おうがい)は、子どものころから学問にふれる機会が多い環境で育ちました。ふるさとの津和野(つわの:現在の島根県津和野町)での暮らしや早くからの勉強が、のちの活躍につながっていきます。
島根県での誕生と医者の家系としての育ち
森鴎外は1862年、現在の島根県津和野町にあたる地域で生まれました。森家は代々、津和野藩(つわのはん)の典医(てんい)とよばれる藩主(はんしゅ)などの近くで働く医者を務めていた家です。
鴎外は長男として生まれ、幼いころから医者になることを期待されて育ちました。当時は、家の仕事や役割を受けつぐことが今よりも重く考えられていた時代です。鴎外にとって医学は、子どものころから身近にある学問でした。
「神童」と呼ばれるほど勉強した少年時代
森鴎外は、幼いころからよく学ぶ子どもでした。漢文(かんぶん)やオランダ語、ドイツ語など、当時の子どもにはかなり難しい学問にも取り組み、まわりから「神童(しんどう)」と見られるほどだったと伝えられています。
19歳という若さでの東京大学医学部卒業
森鴎外は10歳のとき、父とともに東京へ出ました。その後、ドイツ語などを学び、11歳で東京大学医学部予科に入学します。今でいう小学生の年齢で、大学に入るための学校に入ったと考えると、かなり早い歩みです。
大学では医学を学び、1881年に東京大学医学部を卒業しました。19歳という若さで、医学の道へ進んでいったのです。
医者と小説家という「二足のわらじ」での活躍
森鴎外(もり おうがい)は、医者と小説家という2つの顔を持っていました。「二足のわらじ」とは、2つの仕事や立場をあわせ持つことです。鴎外は軍医として働きながら、文学にも力を注ぎました。
衛生学を学ぶためのドイツ留学
森鴎外は1884年、陸軍の命令でドイツへ留学しました。留学の目的は、軍隊で必要な衛生学(えいせいがく)を調査し、研究することでした。衛生学とは、病気を防ぎ、人の健康を守るための学問です。
ドイツで鴎外は、軍隊の衛生について研究しながら、ヨーロッパの文学、美術、哲学(てつがく)にもふれました。そこでの経験は、帰国後の軍医としての仕事や、外国で学ぶ青年の心を描いた代表作「舞姫(まいひめ)」にも反映されています。
陸軍の医者としての高い地位への出世
ドイツから帰国した森鴎外は、陸軍の軍医として働き続けました。軍医の仕事は、けがをした兵士を診ることに加えて、兵士たちが病気になりにくい環境を整えることも含まれます。食事、水、住む場所、衛生のしくみを考えることも大切な役割でした。
日清戦争(にっしんせんそう)や日露戦争(にちろせんそう)の時期にも、鴎外は軍医として仕事をしました。そして1907年には、陸軍軍医総監(りくぐんぐんいそうかん)・陸軍省医務局長(りくぐんしょういむきょくちょう)に就任します。
これは、陸軍の医療や衛生をまとめる、とても責任の重い役職です。鴎外は、文学の仕事と並行して、兵士たちの健康を守る仕事にも長く取り組みました。
夜の時間を使って小説を執筆
森鴎外は、軍医として忙しく働きながら、小説や評論(ひょうろん)、戯曲(ぎきょく)、翻訳(ほんやく)などを書き続けました。昼は森林太郎として国の仕事に向き合い、仕事の合間や夜の時間に文学へ取り組んでいたと考えられています。
今も読みつがれている森鴎外の有名な作品
森鴎外(もり おうがい)の作品は、今も多くの人に読みつがれ、教科書で取り上げられることもあります。昔の言葉づかいが難しい作品もありますが、「人はどう生きるのか」「幸せとは何か」など、読んだあとに考えたくなるテーマが描かれています。
ドイツでの切ない恋を描いた「舞姫」
「舞姫(まいひめ)」は、1890年に発表された森鴎外の代表的な小説です。主人公の太田豊太郎(おおた とよたろう)は、ドイツのベルリンに留学し、エリスという女性と出会います。物語では、恋や仕事、自分の気持ちと社会のしがらみの間でゆれる青年の姿が描かれます。
「舞姫」は昔の文体で書かれているため、最初は難しいと感じるかもしれません。それでも、明治時代の日本人が外国で学び、外国の文化に出会ったときのとまどいを知る手がかりになります。国語の教科書で取り上げられることもある、森鴎外を代表する作品のひとつです。
命や幸せの意味を問いかける「高瀬舟」
「高瀬舟(たかせぶね)」は、罪人を船で運ぶ場面を通して、命や幸せについて考えさせる短編小説です。船の中で交わされる会話から、「人にとって本当の幸せとは何だろう」「人を助けるとはどういうことだろう」という問いが浮かび上がります。
「高瀬舟」は、短い物語の中に簡単には答えが出ない問題がこめられています。登場人物の気持ちを想像しながら読むと、森鴎外が読者に考えてほしかったことに近づけます。
世界の文学を日本へ紹介した多数の翻訳
森鴎外は、自分で小説を書くほかに、外国文学を日本語に訳す仕事にも力を入れました。翻訳(ほんやく)とは、外国語で書かれた文章を、別の言葉で読めるようにすることです。
有名な翻訳に、アンデルセンの小説をもとにした「即興詩人(そっきょうしじん)」があります。鴎外は、外国の物語をただ日本語に置きかえるのではなく、日本語の文章として自然に読めるように工夫しました。こうした翻訳は、当時の日本の読者がヨーロッパの文学にふれるきっかけになりました。
また、鴎外は「山椒大夫(さんしょうだゆう)」や史伝(しでん)「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」など、歴史に関わる作品も残しています。小説、翻訳、評論、史伝まで、鴎外の文章の仕事は幅広いものでした。
森鴎外についてのQ&A
Q.森鴎外はどんな人柄だったのでしょうか?
A.森鴎外は、まじめに学び続ける努力家だったと考えられます。軍医として働きながら小説や翻訳を書き続け、晩年まで博物館や美術に関わる仕事にも取り組みました。
Q.森鴎外の作品は小学生にも読めますか?
A.森鴎外の作品を初めて読むなら、短編の「高瀬舟(たかせぶね)」や、あらすじを知ってから読む「山椒大夫(さんしょうだゆう)」が入りやすいでしょう。昔の言葉が難しい場合は、現代語訳や子ども向けの解説を使うと内容を理解しやすくなります。
Q.森鴎外の子どもには、なぜ外国風の名前が多いのですか?
A.森鴎外は、子どもたちに於菟(おと)、茉莉(まり)、杏奴(あんぬ)、不律(ふりつ)、類(るい)と名づけました。これらは外国人の名前に近い響きを持ち、海外でも呼ばれやすい名前を意識したためとされています。ドイツ留学を経験した鴎外らしい考え方がうかがえます。
森鴎外は医学と文学の道を歩いた文豪
森鴎外(もり おうがい)は、森林太郎という本名で軍医として働きながら、森鴎外という筆名で文学作品を発表した人物です。医学を学び、ドイツ留学を経験したあと、陸軍の医者として衛生や医学に関わる仕事を続けました。
一方で、「舞姫(まいひめ)」「高瀬舟(たかせぶね)」「山椒大夫(さんしょうだゆう)」などの作品や、多数の翻訳(ほんやく)も残しています。医学と文学の両方に力を注いだところに、森鴎外という人物のおもしろさがあります。
森鴎外に興味を持ったら、まずは短編の「高瀬舟」や「山椒大夫」のあらすじから読んでみましょう。作品の内容を知ると、鴎外がどんなことを考えて物語を書いたのか、少しずつ見えてきます。









































