平清盛(たいらのきよもり)は、平安時代の終わりに、武士として大きな力を持った人物です。武士の立場を強め、朝廷(ちょうてい)の政治や中国との貿易にも力を入れました。
この記事では、平清盛が何をした人なのか、戦いでの活躍や国づくりの工夫をわかりやすく紹介します。
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このトピックスのもくじ
平清盛は何をした人?
平清盛は、武士のグループである平氏(へいし)をひきいた武将(ぶしょう)です。平氏は「平家(へいけ)」とも呼ばれ、清盛の時代に大きな力を持つようになりました。
清盛は、保元の乱(ほうげんのらん)や平治の乱(へいじのらん)で活躍し、武士の立場を強めました。その後、貴族が中心だった朝廷(ちょうてい)の政治に深く関わり、太政大臣(だいじょうだいじん)という、とても高い役職にも就きます。
また、清盛は中国の宋(そう)との貿易である日宋貿易(にっそうぼうえき)を進め、大輪田泊(おおわだのとまり)という港を整えました。まずは、清盛がどのような家に生まれたのか見ていきましょう。
平清盛の生い立ち
平清盛は、平氏の家に生まれ、父の背中を見ながら武士として成長しました。フルネームは「平清盛」で、「清盛」は名前、「平」は一族の名前です。
平氏の跡取りとして育った子ども時代
平清盛は1118年、平忠盛(たいらのただもり)の子として生まれました。平氏は、桓武天皇(かんむてんのう)の流れをくむとされる武士の一族です。家系図で見ると、清盛は伊勢平氏(いせへいし)と呼ばれる流れにあたります。
清盛は、平氏の跡取りとして育ちました。武士の家に生まれたため、幼いころから武芸や礼儀、朝廷との関わりを学んでいたと考えられます。
父の活躍と若いころの経験
清盛の父である平忠盛は、鳥羽上皇(とばじょうこう)に仕え、海賊(かいぞく)の取り締まりなどで力を認められました。武士はもともと貴族より低く見られがちでしたが、忠盛は朝廷の中で少しずつ地位を高めていきます。
清盛は、父が武士として朝廷に認められていく姿を近くで見て育ちました。その経験は、のちに清盛が平氏一門をまとめ、政治の世界へ進んでいく土台になったと考えられます。
平氏の新しいリーダーに就任
父の忠盛が亡くなると、清盛は平氏の棟梁(とうりょう)となりました。棟梁とは、一族や武士の集団をまとめるリーダーのことです。
清盛は、平氏一門をひきいて朝廷の仕事に関わり、各地の武士たちともつながりを強めていきました。平氏の力を大きくするには、戦いに勝つ力だけでなく、政治の中で信頼を得る力も必要でした。
武士の地位を高めた戦いでの活躍
平清盛が大きく出世した理由のひとつは、戦いでの活躍です。平安時代の終わりには、天皇や上皇、貴族の間で対立が起こり、その争いに武士が深く関わるようになりました。
朝廷の争いに巻き込まれた「保元の乱」
1156年に起きた保元の乱は、後白河天皇(ごしらかわてんのう)側と崇徳上皇(すとくじょうこう)側の対立から起こった戦いです。清盛は後白河天皇側につき、源義朝(みなもとのよしとも)らとともに戦いました。
この戦いで勝利したことで、清盛は朝廷での地位をさらに高めていきます。貴族同士の争いに武士が参加し、勝敗を左右する存在になったことは、武士の力が強まっていたことを示しています。
ライバルの源氏を破った「平治の乱」
1159年に起きた平治の乱では、清盛の平氏と、源義朝を中心とする源氏(げんじ)が対立しました。この争いには、朝廷の中で力を持とうとする貴族たちの争いも関わっていました。
清盛はこの戦いに勝ち、源義朝は命を落とします。源氏の力が弱まったことで、平氏は武士の中で大きな勢力になりました。清盛の名前は、武士のリーダーとしてさらに広く知られるようになります。
政治の重要な役職「太政大臣」への就任
戦いでの活躍と朝廷での働きによって、清盛は出世を重ねました。そして1167年には武士として初めて、太政大臣(だいじょうだいじん)に就任します。太政大臣とは、朝廷の政治の中でも非常に高い位の役職です。
それまで政治の中心は、貴族や天皇に近い人たちでした。清盛が太政大臣になったことは、武士が政治の中心に近づいたことを表しています。一方で、平氏の力が大きくなりすぎたため、貴族やほかの武士の間には不満も生まれていきました。
国を豊かにするために行った政治と貿易
平清盛は、戦いで力を広げただけでなく、貿易や港づくりにも力を入れました。清盛は、船が行き来しやすい港や航路(こうろ)を整え、貿易によって世の中を豊かにしようとしました。
中国の国「宋」との「日宋貿易」の推進
清盛は、中国の宋(そう)という国との日宋貿易(にっそうぼうえき)を重視しました。貿易とは、外国と品物を売り買いすることです。宋からは、宋銭(そうせん)と呼ばれるお金や、焼き物、書物、薬などが日本へ入ってきました。この宋銭によって、日本でもお金を使って買い物をする習慣が広まっていきました。
清盛は、瀬戸内海(せとないかい)を通る船の行き来に注目し、現在の神戸市にあたる場所にあった大輪田泊(おおわだのとまり)という港を整えました。大きな船が安全に出入りできる港をつくることで、宋との貿易を進めやすくしようとしたのです。
大きな船を通すために「音戸の瀬戸」を切り開いた伝説
広島県には、音戸の瀬戸(おんどのせと)という狭い海峡(かいきょう)があります。ここには、清盛が船を通しやすくするために航路を開いたという伝説が残されています。
伝説では、工事がなかなか終わらず、清盛が沈みかけた太陽を扇(おうぎ)で招き返したという「日招き伝説」も語られています。
海の上に立つ美しい「厳島神社」の整備
清盛は、広島県の宮島にある厳島神社(いつくしまじんじゃ)を厚く信仰しました。厳島神社は、海の上に建っているように見える社殿(しゃでん)で知られる神社です。
清盛は、平氏一門の力を背景に、厳島神社の社殿を整えた人物として知られています。また、平家一門が願いをこめて奉納した「平家納経(へいけのうきょう)」も有名です。平家納経とは、お経を書いた巻物を美しく飾り、厳島神社に納めたものです。平氏の信仰や文化の豊かさを今に伝えています。
平清盛についてのQ&A
Q.平清盛の最期はどのようなものだったのですか?
A.平清盛は1181年、重い熱病で亡くなったとされています。「平家物語」には、体が燃えるように熱かったという場面が描かれています。
Q.平清盛と源頼朝はどんな関係ですか?
A.源頼朝(みなもとのよりとも)は、平治の乱で清盛に敗れた源義朝(みなもとのよしとも)の息子で、当時はまだ少年でした。清盛は頼朝を処刑せず、伊豆(いず)へ流します。のちに成長した頼朝は兵を挙げ、平家を倒す流れをつくり、鎌倉幕府を開きました。
Q.なぜ平清盛は悪者のように言われることがあるのですか?
A.平清盛は平氏の力を大きくし、反対する人をおさえたため、不満を持つ人もいました。「平家物語」では、平氏の栄華と滅亡が印象的に描かれます。そのため、後の時代に清盛が強引な人物のように語られることがあります。
平清盛は武士の時代を開き、貿易で国を豊かにしようとした人物
平清盛は、平氏をひきいて武士の立場を強め、太政大臣(だいじょうだいじん)にまで出世した人物です。戦いで力を広げるだけでなく、日宋貿易(にっそうぼうえき)や大輪田泊(おおわだのとまり)の整備(せいび)を通して、海を生かした国づくりにも取り組みました。
清盛に興味を持ったら、厳島神社(いつくしまじんじゃ)や大輪田泊、音戸の瀬戸(おんどのせと)など、清盛にゆかりのある場所を調べてみましょう。地図で場所を見てみると、清盛が海を生かして国づくりを進めようとしたことが、より具体的にわかります。









































